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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

“ダンスっておもしろい?!”を自ら問う若手グループの公演
―藤井宏子制作シリーズvol.2

2月21日(土)18時半開演 全14作品 めぐろパーシモンホール 大ホール

日下 四郎 [2009.3/2 updated]
 〔おもしろい〕という日本語の意味はなんだろう。とくにそれがダンスという身体芸術に係わった場合は? 〔愉快な〕?〔風変りな〕?〔心惹かれる〕? そのむかし日本の神話である古事記の中で、アメノウズメノヒメがアマテラスの不興を癒そうと、大勢の仲間たちの前で、半裸身の踊りを披露したとき、見者らはすべて我を忘れて笑い興じ、その力によって女帝もついに天の岩戸から姿を現したとある。
そう、ダンスはもともと“おもしろい”ものであるはずだ。それが昨今のコンテンポラリー・ダンスは、どうもヒネクレ過ぎて楽しくないか、独りよがりの素人芸がしゃしゃり出ている。これはおかしい。だって平成に入ってもう20年も続けている子供たちの発表会「子りすの会」ですら、面白くて楽しくていつもイキイキいているのに…。もっと自由闊達でゆかいなダンスが、大人の世界でも見られないものか。
4才から平多正於の児童舞踊研究所に学び、その後黒澤・下田の薫陶を受けて来たダンサー藤井宏子の心に、そんな思いがここ2,3年しきりに頭をもたげた。そこで一昨年ついに思いきって主催・制作の立場から、自から選んで若い大人のダンサーを動員しての旗揚げ。それがこのダンス・シリーズ「ダンスっておもしろい!?」の発端である。
この名称には、プロデューサーにとって2重の思いが込められている。“ダンスはおもしろい”筈だという、これまでのキャリアから生まれた強い信念と、自らつくってみんなにみせるステージが、真から“ダンスはおもしろいもの”と、みんなに実感してもらえる成果と中身で応えているかどうか。その反省と設問をふまえた意味深長なタイトルである。
第1回デビューの時の詳しい反響は知らない。ただ若いダンサーたちが、のびのびと自由に、そしてひたむきな姿勢で踊っていた強い印象だけは強く残っている。それを受けての1年ぶりの第2回目。場所は同じめぐろパーシモンながら、地下の小劇場から、あえて今回は階上の大ホールへと勝負の場を移した。この一事だけでも、シリーズにかかわるメンバーの、前向きで真摯な空気が、あらためてひしひしと感じられてくる。
さて全14作品の中身だが、第一部ではまず「BLACK」(酒井杏菜・四戸由香)のスピリットと才気が光った。黒バックの前で、黒い衣装のペアが追いつ追われつ、次第に醸し出てくるミステリアスな緊迫感。眼で読む探偵小説の迫力とでもいおうか。2人のダンサーは、ともに日本女子体育大学の学生。いわばプロとアマの中間的存在だが、将来の志望は知らず、作品としてはもう立派に大人のもの。そこへキビキビした若さの切れ味がプラスした。
この一例が示すように、どうやらプロデューサーは、キャンパスあたりに潜在する可能性にもするどく目を光らせ、金の卵を模索しているようだ。その証拠に今回はそのほかにも、桜美林大学のダンサー有志による「delirium」という異色の秀作が揃った。迷彩色のユニフォームをまとった7人のダンサー群が、コマオトシのように切断された不思議な動きを重ね、波打つサウンドとストロボ照明のうちに、まるで迷走する宇宙船のように、ユニゾンでフロア一帯を浮遊する。Deliriumとは精神錯乱の意。しかしほとばしるエネルギーはすべて前向きのトライアウトで、そこにはデカダンスや隠喩めいた陰の部分は全くない。
作者の署名はRevolutionSとある。創作が全員のアイディアの産物であることは明らかだが、アートとエンターメントの中間を行くこの種の作品では、特に個人名がなくてもそれは許される。これに対し振付の強い個性をひとりで生み出したのが、山口華子の「雪渓」であった。装置なしの大きな舞台を、本人を含めた2人きりで転げ回るドゥオの作品だが、およそ空間のスキや退屈を感じさせない異色の迫力があった。それは単に振付のおもしろさだけではなく、そこに作者の云う「美しい雪渓にも汚点がひそむ」という主題が、しっかとウラに共存するからで、その点現代舞踊としては、一歩前者を上回わるものがあるともいえる。
大ホールという課題をうけて、逆に振付の方から空間を意識した佳作もいくつかあった。「こえる」(藤井宏子)や「TO BE//」(米沢麻佑子)、「道」(日比野京子)、「だるまさんがころんだ」(北島栄)、「花ノわるつ」(桃の卵)などがそれで、これらにはそれぞれに工夫されたセットや衣装の視覚効果が併置されており、それらがうまく作品成功の一端を担っていたことは確か。しかしそんな場合も、必ずそこにはダンサー自身の、身体への意識の先行があり、決して主客を取り違えていないところが買える。技術面でもほぼ揃って一定の水準をいくうまさをマークしていた。
フォワイエの壁に、各グループや作品のデモンストレーションとして、イラスト入りの手書きのポスターが貼られていた。ちょっと見には児童クラスの発表会めいた着想のようだが、これは単なるお遊びや、コスト節約のための苦肉の発想ではなく、全員が外見や虚栄を排し、ひたすら“ダンスっておもしろい!?”の狙いに少しでも肉薄したいとする悲願のシーニュ(しるし)と筆者には思えたが、いかがであろうか。
 このシリーズはどれも7分前後の気負わない小品のセレクションで組みたてられている。しかしいずれの作品も、制作者ともども“ダンスのおもしろさ”をターゲットに、パフォーマーのひとりひとりが全力で疾走している点に注目したい。そこにはあのコンテンポラリー・ダンスが常に武器とし優先させるかにみえる観念先行や前衛テクノロジーが、みごとに欠如しているとさえいえる。いやあえてそうさせているのだ。
正統と平凡は別物である。カッコよさや虚飾を捨てて、流行や外国からのトレンドを追うのではなく、ひたすら日本人の身体で、未知と表現の可能性を探り当てたいとするあたらしいダンス年代の姿。これからの現代舞踊の流れは、必ずしも一人の天才ではなく、これら若いダンサーたちの、真摯でありながらなにげない、そしてたのしい試みの繰り返しの先に、ポッカリとその確かな姿を浮かびあがらせるのかも知れない。観終わったあと、フトそう思った。(21日所見)