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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

伝統と前衛/古典と現代の並存:LES BALLETS CONTEMPORAINS DE LA BELGIQUE
アラン・プラテルの「憐れみpitié」

4月17日(金)~19日(日)オーチャドホール

日下 四郎 [2009.4/27 updated]
初来日の2000年に観た「バッハと憂き世」以来、わたしにとっては2度目のプラテルだったが、その時の迫力をもう一度まざまざと見せつけられた思いがする。まちがいなく、ベルギー系の現代舞踊がほこる、正統にしてかつ最前線の才能といっていいだろう。元来がヴァン・デケイビュス、ケースマイケル、ヤン・ファーブルなど、中央フランス国とは一味違う異才の輩出する、ラテンとゲルマンが混りあった独特の文化圏だが、ゲント生まれのプラテルの場合、この作家の作品への取り組み方は他とくらべてスケールがだんぜんおおきい。そしてオラトリオの手法を生かし、古典としてのバロック音楽を用いた現代の受難劇をねらうこの作品からは、ヨーロッパ芸術と文化のエッセンスを、ほとんど真正面から受け止める正統派ダンス作品の匂いがただよってくる。

ただしその場合の縦糸としての身体表現だが、こちらは古典バレエの伝統やルールとは遠く離れて、今日の社会と地上に生きる若者たちの、心にうずく愛や欲望、日々の渇えやぶつかり合いの現実を、アリアやレシタティヴ、またコーラスを生かした、伝道書ふうのダンス劇として観客の目の前に突き付ける。したがってここでの振り付けは、徹底してコンテンポラリーであり、舞踊が持つ形式的な拘束とは一切関係がない。プラテルが集団名の後尾に、あえてC de la Bの文字を配して、ベルギー・コンテンポラリー・バレエ(Ballets Contemporains de la Belgique)とした所以は、はっきりとここからきている。

いくつかの挿話が演じられる空間は、「バッハと憂き世」のときとちょっと似ている。まず舞台の右半分には、牢を思わす格子状の壁が立っていて、その前のベンチに8人の男女が並んで座った、ある日の日常風景に始まる。そしてその真上にある平らな床上の平面が、音楽演奏のためのコーナーに用いられた。さらにそのヘリから左へ梯子がのびて、そのさきには塔の上部にあたる一角が見える。あきらかに絞首台のイメージだ。一方舞台下手の地上には、物語の進行を通して四角いテーブルが一台置かれているが、こちらは「最後の晩餐」のメタファーであり、さらにこれら空間の上方からは、至る所に上方から磔刑の殉教者を暗示する吊るしのオブジェが下げられている。受難劇を背景に置いた、なかなかに凝った現代風のセットだ。

今回用いられた生演奏の音楽は、バッハの「マタイ受難曲」が主軸だが、こちらは2000年の時とは違い、全体をカンタータの積み重ねではなく、曲中の“主よ我を憐れみ賜え”のアリアを中心に、中央アフリカの調べから出発したというトリオの《アカ・ムーン》を登場させ、霊歌やジャズ風なリズムを挿入することで、異教の影や色彩をあえてバッハに加えた。また出演者もベルギー人からイギリス、ブルガリア、USA、コンゴー、ブラジルなど、文字通り国際色に満ちあふれる多国籍をピックアップした今日的キャストだ。

そもそもアラン・プラテルの手がける近年のシアター・ダンスは、モンテヴェルディを用いた2006年の「聖母マリアの祈りvsprs」を含め、すべて古典の大作ががっぷり四つに組んだ、特異な音楽劇の形を追求する。ただしそれを用いるダンス創作者としての視線は、あくまでも現代の不安や卑俗、人間の悲しみや秘められた願望に向けられ、そこに理想と現実、神と地上の対比のうちに、若者たちが地上に呻く実存的な現代風景が、くっきりと浮きあがる手法で構成されている。

このようなフル・スコアによる音楽とダンスの共存は、例えば日本では佐多達枝バレエ団が試行する合唱舞踊劇、コーラル・ダンス・シアターでもみられる。今から10年以上も前、ドイツの作曲家カール・オルフの生誕100年を記念して、代表作「カルミナ・ブラーナ」をとりあげたときにそれはスタートした。以来ラベルの「ダフニストクロエ」やベートーヴェンの「第9交響曲」など、音と動きを左右もしくは上下同等、全面的に等価の要素としてとらえた、当時としては異色のシリーズだった。だがそれとプラテルの質的な違いは、やはり歴然としている。

わが佐多達枝のバレエ創作者としての実力には定評があり、その作品成果が毎回人を感動させているのは周知のとおりである。しかし当シリーズの目ざすところは、あくまでも舞台芸術のよりすばらしい表現技術や美的感性の問いかけにあり、いわば古典芸術の範疇を出ない。つまり作品が持つ主題としてのオリジナリティや、今日ただいまの社会との関連性については、いま一歩迫力に欠けるうらみが残る。これだけの規模、これだけの実力をもってしても、今の日本のバレエは、まだそこまでの踏み出しと冒険には手が出しかねて、単に芸の世界にとどまっているのである。

コンテンポラリーという言葉が、相変わらずあいまいな概念を引きずったまま、やたら伸し歩いているこの国の舞踊界だが、今かりに現存するいくつかの大きなバレエ団の名称に、「現代」の2文字を、その前後に冠してみよ。どこかくすぐったい思いが、反射的に神経をはしらなないか。しかも時代はすでに21世紀の最初の10年を終えようとしているのだ。

いつまでもバレエといえばクラシックでは困る。どこか大手のバレエ団が、堂々とC du Japon、すなわち日本現代バレエ団の名称を名乗り出て、よりアクティブなチャレンジを試みてほしい。そんな日がこの国のダンス界にも、1日でも早く来てほしいと、なんだか妙な方向に走り出した願いを胸に、この日プラテル劇の会場をあとにした筆者であった。(19日所見 オーチャドホール)