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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

第36回東京新聞現代舞踊展:
世代交代を終えた斯界の実力をほぼ正確に反映

芝 メルパルクホール 7月10日(金)、11日(土)

日下 四郎 [2009.7/21 updated]
 1970年代の半ばに誕生した東京新聞主催の現代舞踊展も、今年で36回目を数えるに至った。その間一貫して(社)現代舞踊協会の協力を得ながら、今日まで一回の欠演もなく、常にこの国における一線級の作家と作品を並べることで、日本のダンス愛好家に訴え、いまでは斯界の文化的行事のひとつに数えられるまでに至った功績は大きい。しかしその間にはやはり制作にあたっていろんな意味の苦労や問題があったことは、充分に推測できる。最近の難題としては出演者の新旧入れ替え、いわば脱皮の苦しみというのがあった。
 数年前の第30回上演にあたっては、記念行事というふれこみで、新顔の前衛から老大家のレギュラーに至るまで、なんと計36名の出演者をズラリ3日間にわたって披露した。だが量は質を代弁しない。その時の印象では、この定評ある公演も、若手の台頭、進出というよりは、むしろコンテンポラリーという美名のもとに実体不明のパフォーマンス、プロ以前とでもいうべき、ダンスとは無縁の、いわば交代期に特有の乱雑なプログラムが出来上がった。あれから5年、今回の2日間にわたる24作品を見おえると、言葉は適切でないが、ピンからキリまでのキリがそぎ落とされ、また往々にして虚飾と示威の代名詞にすぎないピン階級の惰性も消えて、出品された創作自体が、ようやくこの国の現代舞踊のエッセンスを、ほぼ正確に比例反映する内容に落ち着いてきた感のあるのはよろこばしい。とくに両日ともプログラムの中枢部分に、秀作が集中していたのは象徴的。これは積年の経験を踏まえて、制作者サイドにも主体性がよみがえり、いい意味でのクロウト化が身についてきた成果ではないだろうか。
 オッといけない、このコラムは本来作品批評が目的だった。いそぎ今回印象に残った何本かについて言及しておく。初日ではまず渡辺麻子「バッハコンチェルトのエスキース」がそのひとつ。本来ひねった才気の持ち主だが、この作品では振付者として、ようやく身体表現の醍醐味を打ち出せる実力をつけるに至った。カラーこそ違うが同じく動きの魅力をたっぷり発揮する実力派山元美代子の「饒舌な鳥たち」も見ごたえがあった。ハンダイズミ、木元恵介など、自らも1員にくわわって、全6名のダンサーが、シャープで高質な振付を生かして、みな伸び伸びと踊っている。井上恵美子が主演する「花のある…」は、黒いハットとスカート姿の老婦人が狂言回しで、演劇寄りの得意な人生スケッチを描いたユーモラスな短編。ときとして枠をはみだす危険を伴いながらも、やはりこの人なりの唄がある。
 さてこの日の水準を抜く秀作は、野坂公夫・坂本信子の「150億光年の恋」だろう。練り上げられた振付の熟成度にプラスして、衣装・空間の美学が光る、レベルの高いダンス芸術の粋を見せつけられた思いだった。その他ダンス空間の構成では、山田奈奈子の「バスを待つ」が出色。この人の最近作には、作家・演出家としての視点に、以前にはなかった並ではない鋭さと成長を感じる。いっそ今後はスタッフに専念して活動を続けて行くのもひとつの方法かも。
 2日目11日の作品からも、印象に残ったいくつかをあげておく。まず佐藤一哉だが、この人の個性もようやく振付家としてホンモノに近づいてきた。ダンスに見る笑いとペーソスは、日本人作家の苦手領域だが、逆にいえば貴重な資質。膳亀利次郎と組んだ「CO2」は、社会意識につながる主題の点だけでも買えるが、既成のポップ曲のインタープリテーションにとどまらず、独自の発想からの積み上げであれば、さらによかった。今後の健闘を祈りたい。山名たみえの「春と庭」は、主題もいいしなかなかの秀作。ただ今回も、まだダンス(身体の迫力)が、主知的な作風を凌駕するほどに生かし切れていないもどかしさをどうしても感じる。その1点だけが惜しい。
 田中いづみの今回の「円舞曲は続く」はよかった。アメリカ土産ともいうべき従来の無機的な空間美に、ようやく日本人らしいマインド(心)の揺れが感じられるようになったのは立派。あきらかにひとつの前進であり、そのぶん地球儀と風船のダブルイメージなど、得意の美術が立派に生きた。その他印象に残る好作品として、手首の動きにポイントをしぼった真船さち子「Wrist 奇想曲」の群舞、またチャンネル(管)のイメージを、奇妙な動きに移しかえて表現した中條富美子の「CHANNEL」が、それぞれセンスのよさを発揮して楽しめた。
 以上言及した創作がそろってみさせる共通点は、それぞれの作家が、みなダンス芸術という基本から目をそらさず、あくまでも日本人の生身の身体を唯一の武器として、執拗なまで四つに取り組んでいる姿勢にある。大事なのは保守の中の前衛だ。その意味でいうと後半に集められたベテラン連中の作品は、たしかに演出面での才覚や修飾には優れていても、肝心のダンスのほうはいささか型にはまって意欲が感じられず、便利な素材に堕している傾向が見られた。
 そんななかで若松美黄の「豚インフルエンザの歌舞」についていうと、今回はDTMによる作詞作曲はもとより、ソロのダンス以外に、いよいよ生の歌唱の熱演まで添えるという全方位性のサービスで、いま問題のジャーナリスティックな話題をこなした。褒めるにせよ腐さすにせよ、まずは神棚にあげて柏手でシメるよりない、まずは別格官幣大社待遇の魁作だった。実際にお色直しで扮した神主の、真っ赤な神衣もよく似合っていた。

(10日-11日 メルパルクホール)