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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

青山ダンシング・スクエア公演2010「十二の森のギー」:小川亜矢子という名の美意識
26日(水)、27日(木)2ステージ とも18時開演 めぐろパーシモン ホール

日下 四郎 [2010.5/31 updated]
 今回はチラシやプログラム・シートのどこにも、一行の主宰者からの口上や説明がない。手元にはただ作品とダンサー名を無機的に記したページの外は、ひたすら振付者12人の、それもひとりひとりのキャラクターにたっぷり1ページ分のスペースを割いた、なかなか贅沢なフォト・ポートレート風の小冊子が手渡されるだけ。それでいてそこからはすでに“十二の森”のギー、すなわちひとつひとつの開門音とともに、その視界の奥からさまざまな香りと味わいの感性が見事に立ち上がってくるのだ。

 いや少し違った。よく見るとそれぞれの写真の下の余白には、アーティストを紹介する短い文章が書かれていて、よく読むとそこにはさりげなくだが、小川亜矢子の手になるダンス観が、エピグラムのように挿入されているのだ。さらに写真ブロックの冒頭ページには、何やら短いフレーズが一行。卵白系の明るいグレーの地なので、うっかりすると見落としかねない白抜きで印刷されている。曰く“溢れるように”の6文字だ。これは公演の芸術監督が、激励の意味合いをも兼ねて、おのれを含む出品者全員に与えた、この公演の指標であり守るべき規範なのだ。

 これだ、私は膝を叩いた。小川亜矢子のプロデュースには、いつも流れるような豊かなリズム、知的で洗練された贅沢品の光沢がある。そして今ではしっかりとカンパニーの年次公演として定着したこの青山ダンシング・スクエアの舞台。それは小川亜矢子という一本筋のとおった、この国でははなはだ珍しい強い個性が、おのれの美意識の命じるままに、自らコレクトしたベストのメンバーを揃えて発表する、実に華麗なダンスの祭典なのだ。

 おっと不可ない。このコラムは特定のアーティストへのオマージュではなく、出品された作品に対する批評の場であった筈だ。以下順を追ってノートして行こう。時間までステージという闇の空間に隠れて待機する12の森の中、まずトップを切って姿を見せるのは、赤尾仁紀の「こころ音」と題した創作。波打つ群舞のスケール、透明なサウンドのひびき。そして奔放なフロア上の動きに呼応して交錯する鋭い照明の変化球。そこにはダンス・クラシックならではの、端正でいて同時にエッジの効いた美しい抽象美の世界が展開して、まずは観る者の眼をたっぷりと楽しませた。

 続いての“ギー”の味わいは、タイトルも「たとえばひとつの…ギーの物語」と名付けた箱田あかねの作品。直前の先行作と比べてみると、やや構図の重心を下においた、そして演劇的味付けが特色の空間だ。そしてこの創作でも照明の活躍が実に鮮やかだったことを付記しておく。〔照明探偵団〕という愉快な所属名を持つ岡沢克己の仕事だが、ストロボや稲妻、独自のカラーを多用して、ドラマティック・タッチの性格を的確に印象づけた。

 繰り返しになるようだが、小川亜矢子が制作するダンスの舞台は、バレエのテクニックに基礎に置きながら、トータルにはそんな枠をはるかにこえた現代性がモノをいう。それは出演者の顔触れに、いつもレギュラーとして二見一幸や木佐貫邦子、さらには近藤良平などのコンテンポラリー系キャラクターを起用するからでもあるが、それよりも要は彼女の指向するダンスの宇宙が、あくまでも生きた人間の美意識に根ざした現代の身体表現を唯一の目標としているからで、その一点でどの創作もしっかりと今日の世界と対峙しているのだ。そして舞台には若い他の振付者と同じ目線に立って、必ず小川自体も最近作を一点提示する。今回のそれは前半のトリに組まれた新作バレエ「妖精」だった。

 バレエといっても正確にはただダンス・クラシックの技法をあてているからで、問題は10人;のダンサーを自在に動かして現代に迫る、この人ならではのオリジナリティにある。もとより長年のキャリアを通して、典雅な古典の世界でいつも勝負してきたこの才能は、どんなことがあってもはしたなく小手先の前衛技法を抛り込むような馬鹿な真似はしない。これまでひたすら練り上げ積み重ねてきた洋舞古典の技法をベースにして、今を生きる人間の感性をひたすら探求して創作に没頭するのだ。結びのシーンでホリゾントに向かって縦列をつくり、ダンサーたちが次々に左右の腕をアップしながらゆっくりゆらす振付には、ふくよかな千手観音たちのうしろ姿を拝む思いで、はからずも東西文化の融合の生きた実例をつきつけられる感慨を覚えた。

 こうして振り返れば今はむかしの60年代、当時欧米から帰国した直後の小川亜矢子が挑んだあの麻布一番街での、熱気あふれるサンデー・パフォーマンスの数々。そのあと新宿へ進出して、コマや地下のアップル劇場で、西鶴や四谷怪談など、それなりに日本の伝統に素材を求めて挑戦した実験的創作の時代。かくしていまは半永久的な根城となりつつある、青山べルコモンズ8Fのダンシング・スクエア。ここに至る短くない年月には、若い日々イギリス・アメリカの本場で遭遇した生活と芸術の厳しい現実体験が、バレエ・テクニックへのゆるぎない信念と美意識を、しっかりと彼女の中に植え付けたのだ。

 またしても脇道に反れたおそれあり。その他心に残った作品についてのノートを、急いでここにメモしておく。まずは後半に入って近藤良平の「サンドウイッチ」。この人のダンスはデビュー期には、文字通り元気印の無手勝手流、たとえば運動会の予行演習のまねごとだぐらいに思っていた。しかしここのところ、今ではどの作品も立派に近藤スタイルと呼べる、独自のレベルにまでダンスの中味が昇華されてきた。例によって通路をすり抜け、得意の楽器を奏でながら吐いたこの日の冗句;「小川亜矢子先生があんなに若いのは、いったいどんな薬を飲んでいるのか教えてほしい」などなど、いまではなんらのイヤミやコビを感じずに聞けるアドリブにまで成長した。才能であろう。

 それに木佐貫邦子の作品「木漏れ日の首」にみる、おのれの分身を意識した新たな表現への試みも注目に値した。一方スケールの大きい金田あゆ子の「完璧なお城」には、バレエ・ブランの現代版と称してもいい迫力と斬新さを覚えた。その他の多くの作品にも、それぞれに人の関心を呼び起こす独自のギーの味わいが浸みこんでいる。やはり全体を通してユニークな創作ぞろいだったと称していい。

 フィナーレでステージいっぱいを埋め尽くした、100数十名に達する出演者のカーテンコールはなかなかの圧巻だった。それは一瞬ある意味で小川亜矢子が解き放つ美意識が、おのずから寄り集まった結晶体のような印象さえ与えた。この公演の意気と成功を問わず語りに代弁する、ダンス界では珍しい、ちょっとした風景だったといっていい。
(26日所見)