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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

〔01ステージ〕 コンテンポラリー公演「Allegory」:あり得る個性的な現代舞踊の一形体
9月19日(日)14:30/17:30 2回ステージ atアサヒ・アートスクエア

日下 四郎 [2010.9/27 updated]
 日曜日の午後。いまやダンス界でもすっかりおなじみになった、隅田川は吾妻橋ほとりのアサヒ・アートスクエア。今日は花柳かしほの〔01ステージ〕公演「Allegory」を観るためにやってきた。岡本太郎の金色オブジェの向こうに、もうひとつ完成近い近未来の名物スカイツリーが姿を現し、そんな風景をスナップしておこうと、水上バス乗船の順を待つ観光客の列ともども、この一廓は携帯カメラをかまえる人の出でいっぱい。

 いつものようにエレベーターで4Fまで運ばれ、受付をすませて会場へ入ろうとすると、どっこい今日はさらに1階、5Fのフロアまでご足労をお願いするという。ハテ? 結局足元にスタジオを見下ろしながら、ぐるり回廊を半周して、最後はいつもとは反対側の、壁を背にした4Fの客席に落ち着いた。このホールを公演に使う誰もがもてあまし気味の、空間を縦割りに倒立して立つ例の太い3本の柱も、これなら背景の大道具として、あらためて逆利用できることも出来る。今回初めて接する着想だ。

 さて作品の内容は“どこにもないファンタジー、あるいはそこら辺にあるお話”という副題の通り、ひとりの少女(由愛典子)が、野辺に見つけた童話本の中味にひきこまれ、ピエロ風の少年(春田真耶子)と仲良く論議を交わしながら、いつしか、アリスを思わす“自分探し”の夢想の旅に出る。その道中で「人魚の流星狩り」だの「涙の海」「わらべうた」など、日本舞踊、モダン・ダンス、バレエと、日本に現存するさまざまな多元的スタイルのダンスを生かした風景と人間に出合うのだ。その構成に「日本の心と古来の舞踊テクニックを基にコンテンポラリー作品を創り続けたい」(プログラムノート)とする、 主宰者KASHIHOの念願が読み取れる。

 そもそも〔01ステージ〕という集団は、その名称が暗示するように、今世紀初頭の2001年 に、音楽家、美術家らダンス周辺の有志を巻き込んで、今までにない独自の創造空間を目指してスタートさせた新しい舞踊グループだ。主宰のかしほは3歳の時 から花柳茂香の門下にあって修業したというから、ある意味“反伝統”はいわば定められた運命の導きだったかもしれない。単にコンテンポラリーダンスと言わ ず、それまでの因習的様式やルールをきらい、逆にそれらを止揚した創作を目指す、いわば独立不羈のダンサーだ。しかしいったい何からの独立なのか。テク ニックとしては、首のかしげから腰のひねり、細やかな手足のすみずみに至るまで、しっかりと流派の技を身に付けている。問題はそれらを武器に、どんな指標 に向けて想を練り、いかに社会と今に接点を持つダンスの世界を生み出せるかどうかだ。

 今振り返ってみると、そもそもこの種の改革志向は、歌舞伎とともに長い歴史のある日本舞踊の世界にあっても、今にわかに始まった話ではない。遠く明治の30年代に『新楽劇論』を発表して、壮大な日本のオペラを目指した坪内逍遥の野心や、その後に続く〔春秋座〕、〔踏影会〕、さらに〔羽衣 会〕など、舞踊がらみの歌舞伎の実験活動は少なくなく、一方それと並行するようにスタートを切った初代藤蔭静枝の〔藤蔭会〕は、対象をひたすら身体の内的高揚と主題に集中して、それまでの様式からの脱皮を目指し、これが昭和に入ってからは、期せずして一連の近代舞踊の波を滔々と巻き起こす。五条珠美の〔珠 美会〕、花柳寿美の〔曙会〕、西崎緑〔若葉会〕など、いわゆる「新舞踊」とよばれた創造性豊かな日本舞踊にみる改革潮流である。実体を伴うこの国の舞踊作 品の近代化は、まさにここに見られるように伝統の正面突破の形をとって、その根っこから見事に誕生するかに思われた一時期がたしかにあった。

 しかしその後太平洋戦争(第2次世界大戦)へ向かっての思想統制や国家をあげての軍国行政があって、せっかくのこの運動もいつしか勢いを削がれるようになっていった。今になって改めて省察するに、この国の伝統を生かした創造的舞踊は、当然江戸300年の実績の上に立つ伝統の流れ、すなわち歌舞伎舞踊を踏まえた日本舞踊の延長線上に芽を出すのが理想で、その実践が正しくそれら若手の改革者によって試みられながら、不幸こころざし半ばでとん挫してしまったのはくれぐれも惜しまれる。

 その痛手の大きさからか、戦後はこの種の創造的再起に向かって立ち上がる動きは、日本舞踊の領域からはついぞ見られなくなった。代わってその課題は現代舞踊を筆頭に、いわゆるコンテンポラリ-・ダンスと称せられる洋舞の流れのうちに委ねられているのが現状のようだ。しかしながらそもそも芸術上の内なる改革の志は、本来アーティスト個人の産物だ。日本舞踊でも生来的に才気と英知に富む何人かのダンサーは、常にあるべき舞踊の姿を追い求め、独自の創作を発表している。例えば戦後いち早く再起した花柳徳兵衛のユニークな活動、花柳照奈の創作舞踊、KASHIHOの師にあたる花柳茂香、花柳寿美(3代目:初代の孫娘)、花柳面、花柳基などは、かつて先達が試みた〔新舞踊〕の意を戴し、少数ながらひるまずこの課題にむかって、挑戦を試みる少数精鋭である。

 そんななかで花柳かしほの〔01ステージ〕は、活動の主体としてのおのれの他に、ヴォイスパフォーマーのアベ・レイ、モダン・ダンスの松永茂子、それにバレエ界の春田真耶子や前衛美術家たちが随時参加す る、実にフレキシブルで表現範囲の多様な前衛派だ。もうすこし詳述すると、実は90年代に音楽畑のアベ・レイと組んで「ラ・水族館」を名乗る活動を始めたのが最初であり、そこへ今世紀に入ってから松永茂子が加わった。そして3人は〔グループF〕の別名で作品を発表するケースもある。最近ではこのトリオは6 月に、シアターXの主催するIDTF(国際ダンス演劇フェスティバル)に参加、チェホフの「3人姉妹」に材をとった「少し南へ」を発表している。異端のダンス作品であった。

 私が初めて花柳かしほに接したのは、2年前の夏やはり同じこのアサヒ・アートスクエアでみた「竝木(なみき)、」公演においてである。自作と振付・演出をふくむ5作品を並べたアンソロジー形式の構成で、その中に〔グループF〕の現代舞踊や、春田真耶子のバレエ作品があった。各作品には、それぞれ「噤」とか「傍」、「耀」「凜」など、漢字の一語を当てた象徴的なタイトルがつけられていて、それが個別のメンタルを著す。しかもそれらの文字は、冒頭でアニメ化されてホリゾントのスクリーンに流され、そこから順に作品ごとに不要の文字を消去して見せるという、なんとも凝った美術(須山真怜・ 悠里)を応用していた。多様な全体に流れを付けるひとつの工夫でもあった。

 そもそも日本の舞踊文化にみるいちばんの特色は、その発生の多元性にある。欧米のように古典バレエに始まり、それがすこしづつ技術上の革新を経て多様化していくという、いわゆる一枚岩の展開をとらないのである。したがって例えばこの〔01ステージ〕のように、各ジャンルの表現様式をほとんど無傷のまま投入し、それを生かして全体をまとめるというやりかたは、ちょっと他に類を見ない日本のダンス芸術独特の方法ではなかろうか。そこに私はこの集団に今後の可能性をみる思いがした。

 終りになったが、今回の作品「Allegory」に対する感想は、もちろんいくつかある。細かい点は省くとして、いちばんの物足りなさは、せっかく外部から演出家(増沢望:劇団俳優座出身)まで呼んでお きながら、題材と空間の特異性を、いま一歩視覚的に生かし切れなかった点だ。プロセニアムのないホールの照明は難しい。床上にせっかく切抜のような夢のある幾何学模様を、何回となく投影したが、観客からの低い目線にとっては効果半減。美術(加藤ちか)もまたおなじ。大きな童話本や5F回廊に置かれた中国風の茶器など、反リアルの小道具のおもしろさが出ず、また空からの白布の落下なども、どこかリアリズムの世界の出来ごと以上の効果が不発のままだった。それに全編にわたって使用したアベ・レイの音楽(CD「消えた水族館」より)だが、ソフトな優しさは買うが、それこそ演出の権威で、どこか1か所でもオーケストラルな厚いサウンドの束をドカンと持ちこんで、アクセントとしても劇的起伏を持ち込められなかったか。これらの結果どのシーンのエピソードからも、せっかく題名にまで持ってきた“アレゴリー(比喩・教 訓)”の意味が、いまひとつ明確に浮かび上がらず、それだけ作品の奥行きを出せなかったのが残念だった。(19日マティネ所見)