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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

スターダンサーズ・バレエの果敢な挑戦:オール自前で新作コンテンポラリーが3本
3月12日(土)17時、13日(日)14時の2ステージ 五反田 ゆうぽうとホール

日下 四郎 [2011.3/28 updated]
3月11日の午後、東北地方太平洋沖にマグニチュード9という当地未曾有の大地震が発生した。それに起因する津波の襲来、更にそこへ福島原発機の故障・爆発までが重なって、日本列島は今かってない大きな混乱と試練の只中にある。その期間に東京およびその近辺で予定されていた、決して少なくない数のダンス公演。その中で筆者のスケジュールとして、当日夕刻に組まれていたCDAJの現代舞踊、さらに翌日のJCDN東京公演の2本は、いずれも急遽中止となった。またそれとは逆に12日、13日の両日に組まれていたこのバレエの舞台は、あえて決行の断を下したのである。

どちらが正解ともいえない。取りやめの解体作業だって、上演以上のエネルギーと労役を必要とする。要は状況と使命を吟味した上での決断だ。でもそこに現代舞踊とバレエの性格の違いのようなものもチョッピリ感じた。13日の日曜日は午前中に劇場内の公演本部に電話で問い合わせたところ、「やります。昨夜もやりました。今日もまったく同じです」と、スタッフらしい人の明確な返事が返ってきた。何か誇りのような決意まで感じられる。客の入りは6割少々ぐらい。1ベルのあと緞帳前のエプロンに主催者が現れ、直接肉声で挨拶があった。来場者に対する謝意に続き、今回の公演の収益はすべて義捐金に当てることにしましたと。スマートな対処の一例である。

サテ前置きが長くなった。2011年スターダンサーズ・バレエ団3月公演として打って出た今回のプログラムは、コンテンポラリー・バレエばかりを揃えた特別版。キャッチフレーズの副題にも、あえて“振付家たちの競演”とある。具体的には先ず遠藤康行の「love love ROBOT 幸せのジャンキー」、ついで佐藤万理絵の「HEAVEN SEVEN」、最後に鈴木稔「幸福の王子」の3本である。「ウム、これは面白そうだぞ」。送られてきたフライヤーに目を通しながら、思わず私の口を付いて出てきた言葉は:「日本のバレエも、やっとここまで来たか」。だった。

そもそも日本のクラシック・バレエ団が、自前のスタッフとダンサーだけの手で、創作オリジナルを手がけるようになったのは例外的現象で、それもやっとここ2,3年になってからの試みである。それまではバレエといえば戦後にはじまる半世紀以上の歳月をかけて、「白鳥の湖」などプチパ×チャイコフスキーに代表される古典期ナンバーか、でなければ「ジゼル」「コッペリア」のような、ポピュラーなロマンティック作品を、なんとか海外ゲストの参加を得ながら、どうやら定期公演に組み入れるのがやっとであり実力だったといっていい。したがって創作の現代ものといえば、せいぜいこの国の民族舞踊や説話に手を加え、むりに国産オリジナルを名乗る脚色ものか、さもなければ欧米で評判をとる新しい振付家の小品を、わざわざ高いお金で買ってきて、そのむずかしいテクニックを、なんとか若い団員たち踊らせることで、バレエ団の現代性を誇示するなど、いささか苦しいトライアルが、たまに試みられるのがせいぜいというところだった。

ことわっておくが、もっともまだ歴史の浅いこの国のバレエ界でも、ごく少数の優れた人材による単発的秀作がなかったわけではない。たとえば石井潤、佐多達枝、小川亜矢子、橋浦勇、深川秀夫らの才能が、何かの機会に委嘱を受けるなど、読みきり型のような枠で練り上げた短い逸品はある。今その具体を云々する余裕はないが、私が言っているのはあくまでもメインの大きなバレエ団についてであり、それらがレパートリーとして所有するコンテンポラリー・バレエのことだ。こんにち世界市場に進出して活躍する日本人ダンサーの数は、昔に比べるとずいぶん増えた。それに比べると、振付・演出を担う創造性の高いバレエ作家は、ビックリするほど人材がいないのが現状である。

ところでいま私はコンテンポラリー・バレエという表現を文中で用いた。だがこれは決して自己矛盾的な言葉の誤用ではない。この機会にちょっとそれを説明させていただく。ちかごろはコンテンポラリーといえば、現代舞踊系の世界から生まれたアバンギャルド風の作品で、やたら映像、サウンド、美術などを主体にしたオフ・ダンスの空間をイメージするようだが、もともとこの言葉はダンス・クラシックの概念とルールに向かい合った、今日的という意味での一般形容詞に過ぎない。したがって自由で活発な身体表現を用いるとともに、テーマ自体も現在を視野に入れた創作が生まれるわけで、ダンスのジャンルを問わないのである。

それを現代舞踊系の若いゼネレーションは、なぜかこれをモダン・ダンスに対立する身体技術の一種だと勘違いして、時には〔コンテンポラリーvsモダンダンス〕のコンテストなどと、まるで正体不明の企画まで持ち出したりしたこともあった。その結果舞台に繰り広げられたコンテンポラリー側のダンスは、何ひとつまともな表現力を持たない、単なる裸のアナーキー集団だったりした。

ただしコンテンポラリーの語感には、強いていえばモダン・ダンスよりも、さらに社会環境を意識した、包括的な視野のひろがりといった匂いがあり、したがってコンテンポラリー・バレエは、たとえダンス・クラシックによる振り付けが主であっても、その中味が現在を見据えた主題でさえあれば、充分今日に通用する新しい用語として、そのまま通用する。つまり作品の内容やクオリティを説明する文章として、少しもおかしな表現ではないのだ。事実ヨーロッパ系のメディアでは、一時期よく用いられたが、最近では現代舞踊に席を譲って姿を消したようだ。

どっこい、ますます回り道をしてしまった。いそいで作品の批評に入ろう。まず最初に登場するのは遠藤康行の最新作「Love Love ROBOT―幸せのジャンキー」。この人の目下の在籍はマルセーユ・バレエ団であり、生活の基盤もここ数年フランスにある。スターダンサーズは、彼が90年代にダンサーとして頭角を現したかつての古巣だが、その他の期間の大部分は、オーストラリア、ベルギーなど海外の舞踊団で過ごし、仕事のときだけ必要に応じて帰国する、ひと昔まえの日本人ダンサーには考えられなかった芸術界での世界人と言えるかも。なぜこのことを最初に言及するかというと、今回の出品は、2組の男女トリオと12名の群舞を、銀張りセットの前で、ミュージシャン5人の生演奏に乗せて、ひたすら意味なくアナキーに踊らせる内容だが、この創作からは前後1時間を通して、じつにどこからも国籍の匂いが立ち上がってこないのだ。

バレエに国籍?何の関係があるのだ。コンテンポラリーの抽象バレエならそれも当然だろう、と大部分の関係者は直ちにそう言って反発するだろう。ところが藝術にはそれがあるのだ。国籍というメタファーがまずければ、それをDNAと置き換えてもいい。ナチョ・ドゥアトはもちろん、ベジャールにも、フォーサイスにも、そしてマッツ・エックにだってそれがあるのだ。それがダンスという身体藝術の匂いであり、どうじに振付者の署名ともいえる。だがわれらが遠藤作品には、まだそれがない。作品自体がROBOTだともいえる。もっともその空意・無臭がこの日本人作家のアイデンティティというのならそれはそれまで。いかし今後伸びるだろう可能性を考えると、これはいかにも惜しい。

その点次に組まれた佐藤万里絵の創作「Heaven Seven」は、そのあたりがまっすぐ楽しめる。3組の男女ペアを出し入れするだけの20分ほどの創作だが、そこには否定すべくもなく優雅なバレエの匂いがある。しかし古典では決してない。保守・前衛を超越し、伝統を磨き上げて近代のオリジナリティへ迫ろうとする、振付家の真摯な努力と才能が立派に光る。照明とのコラボレーションも見事に結実した。この1本、間違いなくバレエ団の創作レパートリーに、それなりの定位置を占めるのではないか。シリーズとして今後いくつかのヴァリアント、または続編を期待したいところだ。

さてトリはこのバレエ団にあって、専属振付家として高い位置を占める俊才鈴木稔の力作。題して「幸福の王子」。オスカーワイルドが原作の童話で、幼少の時から何度も読み聞かされ、いつか作品にと長年心に温めていたものだという。その熱量が王子やツバメ、街の人々、降り立つ天使など、作品のすべてのキャラクターに、くまなく鈴木カラーであたたかく埋め込まれていて、ストーリーを追うだけで楽しいメルヘン・寓話の1本が出来あがった。「ドラゴン・クエスト」につづき、当バレエ団に打ち込まれた、貴重なメルクマールとしての杭だ。もう一度言う、鈴木稔のカラーと匂いが全編にいっぱい!(13日所見)