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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

  2004.3/30
「すてきな先輩たち」

 現在の日本には、世界中の舞踊家や教師がいて、観るにしても、教わるにしても、なんでもあり、の幸せな状況です。でも、私より一世代前の方々は、様々な困難、そして戦争中は、舞踊の灯を消さない様、大変な御苦労をされました。すばらしい方が、いっぱいいらして、その方々とすごした時間は、私の心の財産になっています。
 お料理上手で、おいしいものを作って下さった服部千恵子先生、おしゃれで自由奔放な川上鈴子先生、いつも楽しい話題で周りを明るくして下さった関口長世先生―etc
 今日はその中から故人となられましたが、東勇作、貝谷八百子、両先生のお話をしましょう。

 東勇作
 舞踊家としてもすばらしかったのですが(「牧神の午後」なんか最高!!)、教師としてもすばらしかった。学者はだの方でたく山の書をひもとき、舞踊譜も勉強されていました。コツコツと本物を追い求める、と云った姿勢をつらぬかれました。
 或るバレエ公演を観に行ったかえり、たまたまごいっしょになりました。ポール・ド・ブラについて話し合ううち、先生とバッチリ意見が一致。
 以来、おけいこ場に伺ったり、お食事をごちそうになったり―新橋でおすしをおごって頂いたときは、一番弟子の薄井健二さんが、「まさか!!先生が女におすしをおごるなんて!!」とびっくり。(先生は可愛い男の子がお好きでしたから)
 先生は、ジゼルの第二幕も舞踊譜をもとにきちっと上演されました。昔のことで、アダンの楽譜が手に入らなかったので、ショパンの曲を集め、舞踊評論家の芦原英了氏と研究に研究をかさねられました。
 私が一番驚き、感心したのは、先生の「太陽王の踊り」を拝見したとき。
 私がパリ留学中のことですが、パリ・オペラ座で「レ・ザンド・ギャラント」(優雅なインド人)が復活上演されました。これはまだオペラとバレエが混然一体となっていた頃の音楽劇でルイ14世が総指揮をとり、御自身も主役「太陽王」のパートを踊られました。オペラ座の資料を元に、当時(1734年初演)のままに再現されたのを、幸せなことに、私は観たのです。
 そして、一度も国外に出たことがない東先生の「太陽王の踊り」はほとんど原型のまま。
 第二ポジションでの深いプリエ、足を打ちつけるロワイヤル。舞踊譜をみて研究されたのですね。
 先生は日常にも優雅を追い求められました。「バレリーナは、優雅で浮き世ばなれした存在でなくてはならない。だから、トイレに行くところなど、絶対にみせてはならない」と云うきびしいお達し。生徒たちは大変でした。トイレで先生とバッチリ出会ってしまっておそろしくてふるえた人とか、入り口で「ここは月謝が高い!!」とか散々先生の悪口を云っていたら、ドアがあいて出て来た人が先生だったとかー様々なエピソードがあります。
 晩年、先生が病気になられて入院されてからは、松山樹子先生が面倒をみられた、ときいています。「貴族趣味、優雅」を生活の信条にしていらした先生の看病は、さぞ大変だったと思います。松山先生、本当にご苦労さまでした。
 だい分前ですが、パントマイムのヨネヤマ・ママコさんが「洋舞も日舞みたいに家元制度にしないとだめです!!」と云ってたけど、最近になって私も、それは悪くないかもしれない、と思う様になりました。日本人独特の「やさしさ」の知恵が生んだ制度かもー

 貝谷八百子
 八百子先生とは俳句の会でとても楽しいおつき合い。
 「私はガンだから時間がないのよ。もっとしょっ中句会やってよ」とおっしゃって、句会は無欠席。おすしを食べて、笑いころげて・・・先生の句をふたつ紹介しましょう。
「ひとときの心安らぐ迷句会」
「笹の葉におも荷にたえるねがいごと」
 八百子先生は大財閥のお嬢さま。そのお金持ちぶりはすごかった。よく、東勇作先生の個人レッスンを希望されたので、東先生は八百子先生のご自宅に。
 「行くとね、八百チャン寝ているのよ。それで、起きてくるまでずーっと待っているのよ。起きてこない日は、お母様が出ていらして、事務所に連れて行かれるの。お兄さんの昭和さんが机の引き出しをすっと開けると、中にぎっしりお札がつまっているの。それをね、何枚か引きぬいて渡してくれるんだけど、レッスンもしていないのにあんな大金もらってー、困っちゃったものよ・・・」と云うお話を、おすし屋さんで東先生からききました。
 バレエに、湯水の如くお金を使いー
 使いはたしたとかー
 歌舞伎座での「シンデレラ」は豪華絢爛でした。王子役の有馬五郎さんが、廻り舞台の上でずーっとアントルシャ・カトルをしていたのを、とてもなつかしく思い出します。
 ただ、舞台げいこではすごい事件が・・・
 伝統芸能の本丸の歌舞伎座の舞台の上を、タイツをはきチュチュを着た西洋人まがいのダンサーがウロウロするのも、裏方さんたちは気に入らなかったのでしょう。
 舞台監督は田中好道氏。まだとっても若く、ちょっとすご味のある威勢のいいオ兄ィサンでした。裏方さんたちは、ますます面白くない。そして、舞台げいこの時、釣物の大シャンデリアを田中好道さんの肩スレスレに落としたのです。
 さすがプロ。怪我はさせない様に、しかも充分おそろしい様に落としました。もうみんなふるえ上がったそうです。田中氏も、「こわかったよう」と云っていました。
 八百子先生は、すばらしい音感をお持ちの上、優れた演技者でした。
 「シェヘラザーデ」「ロミオとジュリエット」「ポギーとベス」、すばらしい舞台でした。当時ビデオがあったら―とくやまれます。
 これは石井好子さんからきいた戦争中の話。(好子さんも財閥のお嬢さまです)
 当時日本人は、男は国民服、女はモンペをはいて防空頭巾を背中にしょって、外出していました。
 その非常時に、我らが八百子先生は、石井好子さん、その他ハイソサイェティの仲間たちと箱根の山をオープンカーでドライブ。しかも女はみんなショートパンツ姿―
 そして、好子さんの話。
「みんなで派手にワイワイやっていたら、とうとう憲兵につかまっちゃったのよ。そして、非国民だ、ってすごーく叱られてたいへんだったのよ」 そうでしょうねェ。私なんかはモンペはいて田植えの手伝いしていましたもの。
 私はすばらしい先輩たちから、「バレエ」と、そして「何か」を受け取りました。そして、私も70才を越え、それを次の世代に渡そうとしています。恩師小牧正英先生は、今は御病気です。先生の分もがんばって、バレエ界の役に立って、残された時間を生きたい、と思っています。