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ニュース・コラム

舞踊評論家・うわらまこと氏の連載コラム「幕あいラウンジ」

幕あいラウンジ・うわらまこと

2006.3/14
 
「笑い」の持つ機能
          その意識は成長のあかし

 
 
●舞踊作品と笑い
 舞踊公演を見ていて笑うことは滅多にありません(ミスや下手さに失笑、苦笑は別です-内緒)。発表会などでおむつが取れていないような超ミニバレリーナには微笑がわきますし、つまづいてころびそうになったりすると客席がどっときますが、これも作品とは関係ありません。
 まじめな話、古典バレエでは、意図的に笑いをとろうという場面をもつ作品ががけっこうあります。演出にもよりますが、よくみられるのは『白鳥の湖』第1幕での家庭教師をからかう道化、『眠れる森の美女』では、プロローグで自分が招待者名簿から落されたのを怒って、カラボスがカンタルビュットの髪の毛をむしりとってすっぱげ(禿)にしてしまう場面や『ドン・キホーテ』のお金でキトリと結婚しようとして嫌われ、ばかにされるガマ-シュ。実は、私はこの3つの役ぜんぶやったことがあります。もちろん笑われる方、発表会ですが、楽しいですよ。
 閑話休題。古い作品には笑いの場が重要な意味を持つ作品も多いのです。 くわしく説明する余裕はありませんが、『コッペリア』、『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』、どちらも農村の庶民を扱った作品です。近・現代作品では、『じゃじゃ馬馴らし』、『真夏の夜の夢』、『こうもり』など、みな原作にそういう場面のある作品ですね。

●笑いの本質とスタイル
 さて、ここまでは前置き。本論は最近の作品ではどうか、ということ。実はけっこうあるんです、いわゆるコンテンポラリーダンスの分野で。この点は前にも触れたと思いますが、コンドルズ、珍しいキノコ舞踊団が双璧です(笑いの質は異なります)が、伊藤キムさん、ダンスシアター・ルーデンス、北村成美さん、解散するそうですが水と油、まだまだあります。
 ただ、ここでとりあげたいのほ、上にのべたような、笑いやコミカル性を特徴としているカンパニーやダンサーでなく、作品としてそれを意図し、レパートリーとするような動きがどうなっているかということです。つまり、いろいろなタイプの作品をレパートリーにもち、そのなかに笑えるものがある、というケースです。
 わが国では、コミカルなもの、笑いをもよおすようなものを創作するというケースは、とくにクラシックやモダンの分野ではあまりありません。創作というと、ほとんどがとてもまじめな、いいかえれば難しいものなんです。この業界では笑いを誘う作品は芸術性に欠けると思われているきらいがあります。
 笑いにもいろいろあります。「笑い」についての研究もあるくらい。ドタバタ、哄笑、これはこちらが優位に立っている笑い、テレ笑い、お追従芙い、これはこちらが劣位の笑いです。現実にはこれらが微妙に混じりあっているのですが。
 ただ、もう少し高度の笑いもあると思うのです。幸せの笑い、愛の笑い、充実・満足の笑い、感心・感嘆の笑い、意外性からくる笑い、共感・同感笑い、これらはユ-モア(人間性)や、インテリジェンス(理性)から生まれるものでしょう。
 もちろん、初めに記した笑いを低俗だときめつけるわけにはいきません。罪のない大笑いはカタルシスをもたらすからです。ただ、舞踊作品に限って言うと、どんなタイプの笑いでも、ある程度の節度というか、品性は必要だと思います。たとえば、軽蔑、侮蔑の笑いなどは注意しなければなりませんし、ある程度の作品上の必然性も必要でしょう。しかし、舞台芸術(すべての芸術?)は、人間の心を和ませ、豊かにするという機能をもっているわけですから、作品のゆとり、あるいは公演プログラムのなかのゆとりとしての笑いは、ある面で観客を作品に引き込む、作者側に立たせる要因ですから、むしろそれは作者、そしてそれを具体化する舞踊家としての成長を示すものだとさえ思います。「笑う」のは、笑いのもつ意味を理解できるのは、人間だけだという有力な意見もあります。

●最近の作品に見る「笑い」
 最近、このようなことを感じさせる舞台(作品)をいくつか見る機会がありました。
 まず、これはこのページにもべつの視点から取り上げたドイツのヘンリエッタ・ホルン&フォルクヴァング・タンツシュトウーディオの『銀色の海のア-ティチョーク』(2/25)ですし、もう一つはフランス国立リヨンオペラ座バレエ団の『グロスランド』(マギー・マランさん、3/4)です。前者は人間関係や動作の意外性や非日常性から生まれるユーモアですし、後者は身体に肉が付き過ぎた人々、端的には肥満体の(肉襦袢をつけた)男女の、バッハのブランデンブルグ協奏曲の無機質で追い込むような音楽に合わせて(追いかけられて)踊るミスマッチ、困難さ、困惑から生まれる笑いです。いろいろと哲学的な理屈も付けられるでしょう。しかし、まず大事なのは、作者の、そしてダンサーたちの高度の遊び心に無心に身をゆだねることではないでしょうか。
 こう考えますと、これまでにも笑いをとるような作品いくつか思い出します。昨年10月に神戸の貞松浜田バレエ団で上演、文化庁芸術祭大賞を受けたオハッド・ナハリンさんの 『DANCE』も、幕開きの意外性、観客を舞台に上げたことによる、多少の優位性や驚きからくる笑いがありました。また、横浜赤レンガ倉庫で上演されたオーストラリアのカンパニー、CHUNKY MOVEの『Crumpled』(2/3)でも、動作の意外性などで笑いが生まれていました。
 いわゆる「受けている」というのは、観客の共感を生むということになるのでしょう。

●日本の作品にも
日本人はユーモアが苦手ということがよくいわれますが、日本人の作品でも取り上げることができるものがありました。ひとつは青山円形劇場での北村真実さんの『mami dance world 十一十』(2/8)です。ここでは、中村しんじさん、古賀豊さんなど芸達者な男性だけのシーンで、非日常的な怪しい動き、関係が演じられました。たしかにおかしいのですが、作品の構成上の必然性とか、品性というと、やや再考の余地はあったかもしれません。でも、このような姿勢は大切だと思います。もう一つは名古屋市の名束小劇場で行われた、「地獄のオルフェウスあるいは、脚のない鳥」という基本テーマで3団体が競作したダンス公演での川口節子さんの『HEAVEN』です。彼女はこれを飛べない鳥と降りられない鳥に分け、それを人間との寓怠で表現したのです。まずテーマの処理の意外性と同時に共感、もしくは感心の意識が生まれ、そのため舞台上の演技と一体化して、観客のプラスの反応、つまりちょっとした動きでも同感の笑いが起こったのです。他の2つはまじめに抽象的にテーマに取り組み、かえって意味が掴みにくく、悪い作品ではなかったのですが観客はかまえてしまい積極的なインヴオルヴド(舞台への参加意識)が起こりにくくなっていました。 一般的にいって、観客の笑いをとりながら意味を伝えようとする方式、これを作者の堕落とまではいわなくても、商業的過ぎるという批判もありうるでしょう。しかし、わたしはこれまで述べてきたような理由で、振付者、舞踊家としての成熟と考えたいのです。
 芸術にもいい意味のサービス精神は必要で、まず観客を味方にすることが、作品を理解してもらう第一歩ではないでしょうか。