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カバーストーリー

ダンスの世界で活躍するアーティスト達のフォト&インタビュー「Garden」をお届けします。

HOMEカバーストーリー > カバーストーリー 西島千博 02


踊りで悩んだことはないんですか。
「ちょっと悩んで踊りから離れそうになった時期があります。僕は実家では踊りは、やりたい時にやればいいという気持ちでいた。でも逆にバレエのために学校では会議にかけられたりして。なにしろ、小学生がパーマをかけること自体が田舎の日向市では珍しくて、それで発表会のためにという説明をして許可をもらっていました。それだけでもいやなのに、今度は中学に入るために坊主にさせられるので気持ちは複雑です。散髪に行ってバリカンを当てられたら涙がダーッと出た。地肌が真っ青なんですよ。どう考えても、坊主頭はバレエには合わない。(笑)発表会ではカツラをかぶるんですが、ピンでカツラを止めるところもないので跳んだり回ったりすると、カツラがズレてひっくり返って、お笑いの状況になったりして。(笑)」
そんな姿も見せちゃったんですね。(笑)
「とんでもない状況です(笑)。だからまた許可が必要。中学2年ぐらいにはコンクールに出るようになった。東京のコンクールでそんなとんでもないところを見せられないから、髪を伸ばさせてもらえないかと頼んで、全校生徒の中で僕一人だけ長髪だった。もちろん先輩の目の恐いなかで体育館の裏に呼び出され、20人ぐらいのヤンキーグループに囲まれたこともありました。」

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それでどうしたんですか。
「とにかく説明しました。東京のコンクールに出るために許しをもらっていると話したら、ヤンキーのトップの人が、もしコンクールでそういうことになったらそりゃ恥ずかしいよね、と言ってくれて、それで下の人は何も言えない。なにごともなく家に帰って今日の出来事を話したら、母がエーッって驚いて「そんなことでみんなが許してくれて、あなた一発ぐらい殴られてもいいのに」って。」

学校では他の人から見れば西島さんだけ特別扱いですものね。涙が出たというのは、自分の望まないことを強制されたから?
「はい、思春期にはいろんな思いがありますね。」
コンクールはいかがでしたか。
「東京新聞のコンクールには、母のスタジオのお姉さんたちが出場するので見に行っていたんですが、出たかったら出てもいいよと言われ、最初のチャレンジをしました。「シンデレラ」の王子のヴァリエーションを、母のつてで大阪の法村牧緒先生のところに一人で行ってレッスンを受けた。成長期のきゃしゃでヒョロヒョロ、体のバランスが一番悪い時を、どうしたものかと思いながらの練習です。でも体育祭では裸足で走り、友達も遊びも大事だからザリガニ釣りをしたり、木登りして木から落ちたり、普通の男の子の遊びもして、バレエ漬けという毎日にはなりませんでしたね。」

そういう日々を過ごしながら、いつ頃、ご自身ダンサーになろうと思ったんですか。
「だんだん進路を学校で聞かれる時期が来て、考えざるを得なくなるんです。日大の付属高校だったので、芸術学部の道もあるな、とか。そんな時、東京新聞のコンクールに、宮崎の一級下の女の子と「コッペリア」のグラン・パ・ド・ドゥで出ました。法村先生のご指導でなんとか形になって決選に残ってうれしくて。これはいけるかもしれないよと集中して練習して、入賞はできなかったけれど、振付家の鈴木稔さんが、君の踊り良かったから今度出てよと、青山バレエフェスティバルに誘ってくれたんです。それがきっかけで、バレエダンサーというものに興味をもつようになった。当時パトリック・デュポンに憧れていたので、すりきれるほどビデオを見て、やっぱりパリに行きたい、と。」

18歳で留学なさったんですね。
「あちらでは工藤大貳先生のお世話になって、コンクールに出たり、フランケッティ先生のクラスでオペラ座のダンサーたちと一緒にレッスンを受けたり、パリ・クラシック・バレエ団のメンバーとしてヨーロッパ中を公演して回ったり。とにかく、たいへんなこともあったけど、楽しいことも一杯あって、貴重な経験をしましたね。」

インタビュー、文 林 愛子 Aiko Hayashi
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、'80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。