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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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1月の公演から

日下 四郎 2014年2月17日

年が改まったのをきっかけに、今回からこのコーナーでとりあげるダンス作品の対象と切口を、少々変えさせていただきたいと思っている。そもそもここでピックアップする作品のほとんどは、当初からいわゆる洋舞専一であり、それも8割方が現代舞踊に絞られてきた。これは筆者がそのジャンルに親しみを抱いているという理由以外に、もしダンスが言葉の真の意味で“現代芸術”のひとつたり得るとすれば、それは一部の新作バレエを含む、現代舞踊以外にはありえないと、個人として長らくそう信じてきたからだ。
そんなことから当コラムの文体は、当初から一貫して歯に衣を着せずに所感をのべることをモットーとし、その批評の切口はいわゆる〔辛口〕調が主流だったと思う。またそのため創り手側の関係者はもちろん、大方の読み手にとっても、決して楽しい文章とは言えなかったかもしれない。しかしそれをあえて〔甘口〕とは言わないが、いますこしダンス好きの、ただし“今の時代”を生きている客層が受け止めるだろうと思われる感想、「たのしい」「おもしろい」、あるいは「つまらない」といったストレートな目線に沿って述べてみたいと思うのである。
そこでこれまでとは異なる選択の実例としては、 ①: 1回1作品を多角的に論じるのではなく、その月を単位に創作パフォーマンスとみなされる公演の中から、2本ないし3本をピックアップして、それを率直で素直な短評の形でまとめてみること。次に②: 採りあげる作品は、あえて現代舞踊だけに狙いを定めてそれに目くじらを立てる(??)のではなく、例えばサーカス、マイム、ミユ-ジカル、ダンス寄りの
演劇など、もう少し間口を広げ、出来るだけパフォーミング・アーツ全体を対象として取り上げてみたいと思っている。
さて、以上のような観点から、2014年1月分の対象公演としては、この前説が割り込んでスペースをとった関係もあり、とりあえず下記の2本となった。

                        
【2014都民芸術フェスティバル参加;菊地尚子・野坂公夫・折田克子 東京芸術劇場】

おなじみ〔都民芸術フェスティバル〕として、オペラ・能楽・オーケストラ・民俗芸能など、11種目にまたがる舞台芸術の秀作を、一般都民に楽しんでもらうために組まれた例年の祭典である。すでに過去45年の歴史があり、今年は日本バレエ協会の「アンナ・カレーニナ」(1月11-12日)を皮切りに、3月の末まで浪曲や寄席のように1日1回の公演から、長いものは半月を超す長帳場の公演(文学座「尺には尺を」)まで、都合30数本の演目がずらりプログラムされている。その中にあって、CDAJが制作を受け持って主催したこの現代舞踊篇は、トップから3番手として15日-16日に各1回、池袋の東京芸術劇場のプレイハウスで公開された。
出品作品はトップに菊地尚子の「Fragments of Human」。人間という生き物に内在する不条理と畸形を、自らを含む『705 Moving Co.』のメンバー数名に振付けて造形して見せた力作。次いで登場する野坂公夫・坂本信子の「Romances sans Paroles-無言歌―」は、激しい戦いののち、今は矢折れて言葉なく海底に眠る闘士たちへ捧げた鎮魂歌。それをモダンやクラシック、そしてジャズを含めた自在の動きで、格調高い様式美にまで高めたダンス・リリックだ。そして3本目の締めには、奔放な野生の動きと空間美を、自然のリズムの裡に紡ぎ出すユニーク折田克子の「杜の譜(もりのふ)」の登場となる。
観終わっての率直な印象としては、いずれもみな水準を抜く高度の出来栄えでで、この国のモダンダンス界の実力は、あらためて大したものだと感心させられた。これはお世辞抜きで言う実感である。自分で言うのもおかしいが、長年このジャンルのウラ・オモテに関わってきた筆者が、経験を踏まえまじめにそう言っているのだから信用してもらっていい。
ただ問題は残る。この評価はひょっとすると、いずれもテクニカルな次元での賞賛に限定される必要があるかも知れない。完璧に近い職人的達者さ、一種のプロフェショナリズムは、あまりにも自己完結的であり閉鎖的に過ぎるのだ。そういえばこれらは、いずれも2008年から11年に至る期間に発表された過去の創作の再演ないし拡張版である。ただ今回の上演に当たって、果たして“今”との関連において、あらためて吟味したうえで選ばれ、そこに新しい何かが明確に意識され、嵌め込まれた形跡はあるのか。
つまり言わんとすることはこうだ。現代舞踊の作品もまた、古典バレエのように一旦様式化されてしまえば、半永久的に上演されるパフォー設定ミング・アートの方式であっていいのだろうか。明らかにその立ち位置と役割は、他の伝統的なこの国の古典芸能、あるいは近年様式として持ちこまれた西欧発の舞台芸術とは違う筈。それを承知の上であえてこの公演が、都民芸術フェスティバルのプログラムの一つとして選ばれた動機の最たるものは何だったのか。そのあたりが3つの秀作をみおえたあとの、いささかないものねだりかもしれない、筆者の内心がつぶやいた不協和音であった。

ところで以下は偶然通路で筆者の耳に聞こえてきた、架空の一般観客女性(AとB)によるやりとりである。その1部を参考までに:―――

A 「久しぶりに来たせいか、なんだかどの作品も息が詰まるみたい。疲れちゃったワ。やっぱり現代舞踊ってむつかしいのね」
B 「みんな素敵に踊っていたけれど、何を言おうとしていたのか、正直言うとあたしにもよくわからなかった」
A 「むかし同じ作者で〔シンフォトロニカ何とか〕って舞台みた記憶があるんだけど、あれメッチャ楽しかったけど 」
B 「ボレロって音楽に親しみがあったせいかもね。何かそういう取っ掛かりがあるとだいぶ違うんじゃない?」
A 「二つ目の〔無言歌〕って、東北大震災の被害者をイメージしているのかしら」
B 「そうじゃないと思うわ。 人類の歴史に刻まれた、もっと大きな意味での犠牲者いっぱんに対してよ。戦争もあり人種迫害もあり…。むかし同じ趣意の〔闇の中の祝祭〕という作品もあったわネ
A 「へー、哲学的なのね。それとも人類愛?」
B 「〔杜の譜〕で、ダンサーが両手に長い羽根をかざして踊る姿はおもしろかったわ。でも片方の履き物を脱いで、足を引きずりながら動き回るでしょう。あれはなんの意味?」
A 「意味なんかないのよ。ああいう畸形的な表現自体が目的。それがまたこの派のファンには堪えられなくて、キャーと来ちゃうの」

                        
【小野寺修二 カンパニーデラシネラ「ある女の家」23日-26日 新国立劇場(中)】

初台にある新国立劇場の門をくぐるまで、ついうっかりこの公演は階段を下りた小空間、俗称ピットインの小劇場で行われるものだとばかり思い込んでいた。ところが前後左右を急ぐ客たちは、みな正面入り口から入り、そのまま階段を上がってまっすぐ中劇場ゲートへと進んでいく。あわてて切符をたしかめ間違いに気づいた私も、ひとり苦笑いをして改札を済ませ、そのまま開演前の場内客席へと入っていった。ところがこんどは見下ろすステージの上に、フロアの半分以上を占めて、何だか賑々しいセットが、天井いっぱいにまで組み立てられている。机、スタンド、物干し、キッチン。そしてそれらの間隙に放り出された座布団、塵取り、人形、木製テレビ。さらに下手にはバスケットボールのスタンドや、会議机までがあって、わずかに残された中央の空間に、木組みでかたち付けられた空洞の家屋がワンセット。あれ、私はダンス公演を見に来たはずだがと、そこで2度目のびっくりを体験してしまった(美術:松岡 泉)。
オノデランこと小野寺修二といえば、私にはどうしてもあの90年後半の、『水と油』時代の軽妙にして洒脱な、グループ・パントマイムの作品を思い浮かべてしまう。だがほぼ10年にわたる活動ののち、それを解散してパリへ渡った彼は、帰国してセルフ・ユニット、カンパニー・デラシネラを再スタートさせた。そして首藤康之を起用した「空白に落ちた男」のヒットを皮切りに、「カラマゾフの兄弟」や「ロメオとジュリエット」など、その後の堂々たるレパートリーを一見しただけでも、その活動と目標はしっかり演劇畠へ乗り換えた人だとばかり思っていた。
それが今回久々に「水と油」以来の新国立劇場公演である。だからわたしはついピットインのダンス作品を勝手に想像してしまっていたのだ。しかし幕間なしに進行するこの小野寺ドラマの演出は、やたら朗読を入れたりサウンドに凝ることで、「ある女の家」のいとなみが、最後はゴミの集積に過ぎないという哲学を強調しようとしているらしが、そんな主張よりも、やはりこの作品の見せどころや面白さ、つまりオリジナリティは、やはり昔なつかしいあのグループマイムのヴィヴィッドな動きにあり、数人のパフォーマーがスカタンや空を切って、観ている方が思わず笑ってしまう一連のアクションに、やはり究極の勝負どころがあったことをあらためて証明していた。それがこの70分の舞台を観終わったあとの、偽りのない筆者の感想であった。(以上)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。