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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.29 「中村歌右衛門のことなど」  
2001年4月17日
 また桜の話で申しわけありませんが、東京では3月下旬に染井吉野が満開になったので、この前後に桜を見て廻りました。3月29日の夕方には桜の名所青山墓地に行きました。満開の桜の下には何かが埋まっているとかで少々恐ろしい気もしましたが、桜は見事でした。ご一緒したお坊さまが歌舞伎界の最高峰中村歌右衛門(以下敬称略)のお墓に案内してくれました。歌右衛門はまだ生きてるはずです。墓石の前面 の左側には亡くなった奥さんの名前が刻まれていて、右側はツルツルでした。彼が亡くなったら、その名が刻み込まれるとのことだったのです。
 その2日後の31日、歌右衛門が84歳で亡くなりました。翌日の新聞は第一面に訃報、文化・芸能欄や社会面 で、彼の業績や著名人のコメント等々。テレビでは早速の追悼番組があり、名舞台もいくつか放送されました。文化勲章受章者、人間国宝、芸術院会員の偉い人であるだけでなく、何よりもその舞台がすばらしかったからです。そして歌舞伎の魅力が格別 のものだからでしょう。
 歌舞伎はもともと庶民の娯楽として発達したもので、長い時間をかけて練りあげられながらもいまだに観客サービスを第一にしていて、理屈抜きに楽しいものです。理屈先行の現代の舞台芸術も少しは考えなければならないでしょう。現在、東京では歌舞伎座や国立大劇場で毎月のように25日ぐらいは同じ演目が上演され、他にも新橋演舞場などでもしばしば上演されていて、未曾有の盛況といえます。戦後の歌舞伎の隆盛の最大の貢献者は歌右衛門だったといってよいでしょう。その人が桜の満開の日に亡くなったのです。この日は3月末には珍しく雪が降りましたが、夜中には月が見えたとか。日本の芸術・芸能の重要な要素である雪月花(せつげっか)が歌右衛門のために揃ったという不思議な現象にも思われました。
 僕はいまどきの日本人らしく欧米の文明・文化に親しんで育っていたのですが、ある時、母に連れられて歌舞伎を見て、若き日の歌右衛門の舞台に魅せられて以来、都合をつけては歌舞伎を見るようになりました。そして今度は逆に母を連れて行ったり、母亡きあとも晩年の歌右衛門を見とどけることになったのです。
 歌右衛門は全盛期を自力で長く引き延ばした人です。性別や年齢を超越して、娘やお姫様を演じ続けました。舞台姿は古風で、演技は様式的、観客を非日常の世界にひきずり込む魔力を持っていました。彼は真女形といって女性の役しか演じなかった人で、私生活でも女性的な立ち居振舞いで通 したと聞きましたが、あるとき側近にいた人に聞いたら、怒るとすごく男らしくなったとか。男役の立役や敵役の人を向こうにまわして舞台に君臨するのだから当然かも知れません。
 次第に身体が弱ってきても舞台への意欲や執念はすさまじいものがありました。すでに20年ほど前から足腰が弱くなったのか、踊りでも一度しゃがむと、ひざに手を当ててよいしょと立ち上がっていました。いつだったか、故・尾上梅幸と組んだ夫婦の鶴のおどりを見ました。グラン・パ・ド・ドゥと同じ形式で、二人の踊り、両人の独舞、そして二人で舞い納めるのですが、その間二人は一度も座りません。鶴だから座らないでしょうが、低い姿勢から立ち上がるのがきつかったための振付だったと思います。しかし素敵でした。
 6年前でしたか、歌右衛門は平家滅亡後に大原の寂光院で尼になった建礼門院の役と、大阪城落城の際の淀君の役を演じました。開幕直前まで酸素吸入をしていたとか。両方とも一幕だけを見る最上階にかけのぼって見たのですが、これが最後の歌舞伎の舞台でした。そして最後の舞台は5年前の舞踊の会で一回だけ出演した「関寺小町」で、これはテレビで見ました。老後の小野小町が昔を回顧するという踊りでした。ほとんど腰かけたきりですが、彼の人生と重ね合わせて感動しました。若さや体力が必要なバレエでは考えられないことですが、こういう舞台もあります。
 しかし何といっても男ざかりの時代の女ざかりの役がすてきでした。「京鹿子娘道成寺」(きょうがのこむすめどうじょうじ)は衣装を何回か変えながら一時間ほど踊りつづけるもので、彼の華やかさは目がくらむほどでした。この役は女流舞踊家が踊っても仲々成功しないのは、スケールの大きさや体力が必要だからでしょうか。しかしうまく踊れたらこんな気持ちのよいことはないはずです。
 もう十数年前のこと、NHKテレビでのビッグ対談のような番組で、歌右衛門は故・東山魁夷画伯と対談しながら「先生ね、私、もう一度どうしても娘道成寺を踊りたいんでございますの」といっていました。胸が痛くなりました。このあとで彼は中村芝翫(しかん)と組んで、珍しく「二人道成寺」を踊りました。最初と最後は二人一緒に踊るのですが、中間部は二人で分けて踊るので少しは負担が少なくなるからでしょうか。これが歌右衛門が「道成寺」を踊った最後になったはずです。そして昨年秋、今度は芝翫が「娘道成寺」を踊りました。72歳だとのことですがまだまだ元気。「道成寺」には大勢のお坊さんが出て来ますが、その中に二人の息子と三人の孫がいるので、いかにも嬉しそうでした。しかしこれは「一世一代」即ちこれで「娘道成寺」は踊りませんということらしいのです。少し淋しい気がしました。
 ところが最近すばらしいことが起きました。中村雀右衛門(じゃくえもん)が四国の琴平町で毎春行われる「四国こんぴら歌舞伎大芝居」で「藤娘」と「二人道成寺」を踊るというのです。何とか琴平にかけつけました。81歳という雀右衛門は「二人道成寺」を次男の芝雀(しばじゃく)と組んで踊っていました。顔立ちも似た両人は父と息子というより美人の姉妹のようで、嬉しくなりました。81歳での「道成寺」! ひとりで心を込め踊った眼目の「恋の手習い」の場面 は、色っぽいと同時に格調の高さは類がありません。彼は舞台芸術はテレビドラマなどとは違って年期が必要なんだと実証していました。だからナマの舞台はいいんですね。舞台では世界一の美女、雀右衛門はまだまだ踊れるはずです。そして観客全員を魅了しただけでなく、そろそろ人生に疲れてきた僕にも元気を与えてくれたのです。まだまだがんばってください。
 外来の舞踊ではまだこういう気分を味わったことがありません。洋物中心の生活をしている人々にも近付きやすいのは歌舞伎だと思います。時間的、経済的にきつくても、一幕見の席だったら大丈夫。見たことのないかたがたにぜひおすすめします。



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