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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.44 「写 実と様式」  
2001年12月12日
 舞台芸術は生身の人間が演じるものですが、実際の日常生活とは多分に違った世界が創造されます。演劇のなかには日常生活を忠実に描こうとする作品もありますが、オペラでは神話の世界を実現したり、能では能舞台に夢幻の世界を作りあげます。舞台には多かれ少なかれ、誇張やウソが必要で、日常生活をそのまま切りとってきても舞台としては通 用しません。
 それに対して映画やテレビドラマなど、スタジオやロケで撮影したものをつなぐものでは、日常的な内容や表現のものが多いようです。だから衣裳や化粧そして演技も写 実的になります。リアルな演技が上手な演技だということで、日常生活そっくりに演技することが求められます。だからオーディションで選ばれたばかりでも、原宿でスカウトされたばかりでも、周囲の人の助けで一躍人気者になれるかも知れません。現にNHKの朝のドラマに主演してスターになった人も少なくありません。
 ところがそんな人気者でもバレリーナやオペラのプリマドンナにはまずなれません。舞台上では他の人ができないようなことをしなければスターになれません。何よりも立っているだけで存在をアピールできなければスターとはいえません。舞台という一つの秩序ある世界を支配する魅力、力量 が必要です。
 舞台芸術の表現として、写実と様式という対照的なことがいわれます。写実は現実をそっくりに描写 するやりかた、様式は何かを強調したり、何かを省略したりして、単純化や抽象化を試みたりもします。両者の対照がわかりやすいのはやはり歌舞伎でしょう。
 NHK教育テレビで「歌舞伎鑑賞入門」というシリーズがあって最近再放送されているようです。その中の一回を見ました。副題に「写 実と様式」とありました。これを見て、思いついたことを書きます。
 歌舞伎にはいくつかの分けかたがあるようですが、舞踊は別にしても、時代物と世話物に大別 するのが普通でしょう。時代物は歌舞伎が出来上がった時代よりもむかし、平安や鎌倉、室町時代などから題材をとっています。だから「義経千本桜」とかのように源氏平家争い等々が描かれています。しかしそこは芝居のこと、歴史的事実と違って死んだはずの人が生きていたりして大活躍したりします。どうせウソだからというわけでしょうか、豪華でシンメトリックな装置、金銀や極彩 色の衣装、そして女性は真っ白な化粧だったり、男性は派手な隈取り(くまどり)で、やることなすことオーバーで、せりふも大声で抑揚をつけて歌うように長くのばしたりします。全ゆる面 でそれこそ様式的といえましょう。これは現在は文楽(ぶんらく)といっている人形芝居から来ているからでもありますが、当時は電気がなくて暗かったので、暗くてもはっきり見たり聞いたりできるようにと派手に派手にとなったようにも思います。
 いっぽう世話物というのは江戸時代の現代劇です。テレビのなかった時代の情報源といったところで、実際に起きた殺人事件や心中事件から盗難事件などをいち早くとり入れたり、ほろっとさせる人情話もあります。だから装置や衣裳、化粧から演技やせりふも写 実的といえます。しかしそこは舞台のこと、内緒話は自然体でやれば聞こえないので、観客に聞こえるように話したり、暗闇の場面 でもわざと明るくしたりするのです。それが芝居というものでしょう。
 しかし時代ものと世話物とはいうものの厳格に分けられず、部分的には入り混ります。「時代に世話あり、世話に時代あり」という言葉もあるそうです。朝から晩までかかる長大な通 し狂言といわれる「義経千本桜」なども幕によっては江戸情緒の濃い世話物になることもあります。そしてそれが歌舞伎の魅力となるのでしょう。新作の歌舞伎でも役者さんがこの部分は写 実にしましょうとか様式で行きましょうとか工夫したりするそうです。そのバランスの面 白さを楽しむのも一興でしょう。有名な六代目の菊五郎は老若男女どんな役をやっても見事にこなしたといいます。つい先日は勘九郎が「藤娘」を踊ったあとで「伊賀越道中双六」という芝居のよぼよぼの老人を演じて観客を感心させていました。
 歌舞伎の楽しみは現実と非現実の間を往復させてくれるところにもあります。これは写 実と様式の別を知っておけばよけいに楽しくなります。
 能は日本の古典の中でも様式美を最大限に押し出しています。たしか先日亡くなった白洲正子さんのエッセイにあったかと思います。彼女は小さい時から能にも親しんでいて、能を習ってもいたそうですが、ある時先生が月を見る場面 では月を見る気持ちにならず、月を見る姿できちんときれいに立つことを考えなさいとおっしゃったとか。はっきりとは思い出せませんが、これは能だけでなく舞台芸術の様式美についての鋭い一言と思います。
 外来の舞台芸術の中ではやはりバレエが最も様式的かなと思います。「白鳥の湖」の第2幕、第4幕での白鳥たちの動きは本当の白鳥の写 実でなく、造形・型式ともに様式的です。ダンス・クラシックのレッスンは人間の日常生活から対極にある人工的な動きを並べています。ダンサーたちは脚を180度開くことに専念しています。しかし5番ポジションもアラベスクの美も不自然なまで開いた脚だからこそ100パーセント美しく見えるのです。様式的表現が古典バレエの最大の魅力になっているのです。
 ということでバレエの批評や評論などで様式的とか様式美とか様式化という表現を用いることがあります。ところが10年ほど前のことでしたか、日刊新聞でのバレエ評を書いた時に様式的という言葉を使って担当の記者のかたにFAXでお送りしたら、間もなく電話があり、ビザンチン様式とかロココ様式という用いかたはあっても単に「様式的」という言葉はありませんというお話だったのです。エー?と思ったのですが、何とか違う表現に直しました。その次の回にもう一度「様式的」という言葉を使ってみました。そしたらまた電話で同じ言葉をいただいたので再び書き直しました。別 の新聞では使っているのにと思いながらです。それが気になっていたら、新聞の歌舞伎評で渡辺保氏が短い文章に2回も様式的と書いておられました。考えてみるとこの言葉は舞台芸術に多用されるんですね。ということは視覚的な問題の場合に使われるようです。担当の記者のかたはクラシック音楽中心に活躍中だったのです。
 クラシック音楽は音の美しさとともに形式的美しさが重視されます。様式美先行の芸術なのでいまさら様式的などとはいわないのかも知れません。近代バレエの名作「瀕死の白鳥」は一羽の白鳥が死んで行く様子を描いて、人生の姿まで考えさせてくれます。ところがこの音楽は、サンサーンスの「動物の謝肉祭」の中の「白鳥」という曲を用いています。この曲は白鳥が優雅に泳いでいる雰囲気を描いたものだそうで、白鳥が死ぬ ところを描いたものではありません。音楽は抽象的・象徴的です。写実的にやるなら白鳥の羽音や鳴き声を用いればよいのかも。しかし音楽は実際の音でなく、イメージを美化したものです。20世紀の中頃、前衛音楽でいろいろな実在の音響を録音してつないだ「ミュージック・コンクレート」という音楽が流行しましたが、間もなくすたれてしまいました。これも初めは面 白くても飽きられたのでしょう。
 一度面白いことがありました。40年ほど前でしょうか、市村俊幸というコメディアンがピアノの前にうやうやしく座って、芭蕉の句「古池に蛙とびこむ水の音」をイメージに作曲しましたのをお聞きくださいといって、しばらくピアノの前で黙想し、やがて右手の人差し指で一つの音をポーンとたたいて立ち上がったのです。大爆笑でした。これは音楽でしょうか。もっと写 実的ならば古池に蛙がとびこむ音を使えばよいでしょう。「奥の細道」の名句「閑けさや岩にしみいる蝉の声」も蝉の声を聞かせればいいのでしょうか。舞踊も忠実な写 実はおかしく、様式化で始まります。
 話が横にそれてしまいましたが、写実と様式を比較してみると、音楽と舞踊、そして芸術全般 について考えて見るキッカケがあるようにも思われます。



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