D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.47 「型と心」  
2002年1月29日
 バレエは物語とかメッセージでなく、パ(ステップ)やポーズといったものがまず重視される舞台芸術です。
 脚を180度に開いて片足をあげてまっすぐ伸ばすアラベスクというポーズは人間の最も美しいポーズだといわれます。しかしこういう姿勢は人間として不自然なものといえます。5番ポジションとか、トゥシューズで爪先立つなど人間らしからぬ 姿勢です。しかしだから美しいのです。非人間的というより超人間的だといえましょう。
 バレエを見ていると古典バレエはいとも単純な物語が進められ、近代の物語バレエも複雑な物語はあまりないようです。言葉がないバレエは、物語が複雑だと何が何だかわからなくなってしまうからです。だから文芸作品を舞踊化するのは至難な業だといえましょう。G・バランシンはこの面 倒を避けて物語のないバレエを作り、彼が選曲した音楽の構成や起伏から細かいリズムにも合わせた抽象バレエを完成しました。バランシンはバレエには義理の母親はいないといったとかいわれますが、物語のあるバレエで若い人々が揃って出演するとだれが妻か恋人か母親か義理の母かはまったくわからなくなってしまいます。新作バレエなどはプログラムをあらかじめ熟読しておく必要がありましょう。いつだったか、英国ロイヤル・バレエ団の公演でケネス・マクミラン振付の「うたかたの恋」というバレエを見た時、美人たちがいとも優雅なので、物語がこんがらがってしまいました。早々に解読をやめて美しいポーズや動きを楽しんでしまった思い出があります。バランシンが抽象的バレエに進んだ理由もこんなところにあったのかも知れません。現代の抽象バレエでなくても、19世紀のロマンティック・バレエや古典バレエも型が優先されます。そして美しい型や動きをクリアすることで、妖精とかお姫様や王子、そして悪役や悪魔の心まで造型されるのです。優れた振付家やダンサーたちは型や動きで心を伝えることのできる人たちだともいえましょう。時代にあわない古くさいといわれがちなバレエが今日でも生きつづけているのはこういう理由もあるのです。
 日本の伝統芸能に目を向けてみましょう。能狂言のうち能は極端に型を重視しています。シテ役の能役者は、たとえ相当の老人であっても、衣装をつけお面 をかぶってポーズすれば若い女性になってしまいます。これは数々の約束事クリアして可能なことなのです。うつむいて片手をお面 の前に近づければシオるといって泣く型になります。老人はそれで若い女性の悲しさを表現しつくすのです。ここで表情のないお面 が泣いたように見えるのです。抑制された型の中に心を読みとるのは観客の想像力の問題でもあります。
 それに対して歌舞伎の型はもう少しストレートでわかりやすいと思います。リアルな世話物に比べ時代物は型が大切ですが、オーバーなので解り易いので能よりは多分に近付き易いようです。要所要所でおおげさな見得(みえ)を切ったりして楽しませてくれます。これは俳優の家に伝わる型が家によって違ったりするので、歌舞伎を見なれている見巧者(みごうしゃ)の人々はいろいろ楽しむことができるようです。伝統芸能の中でも最もポピュラーな歌舞伎の時代物は型の魅力が最優先し、観客はそれを楽しみながら、それぞれに物のあわれや人生の厳しさ楽しさを味わうのでしょう。
 ところが歌舞伎役者、ことに老齢の人間国宝といった人々のインタビューをきくと、判で押したようにまずその役になりきることが第一だとか、心があれば型がついてくるという言葉が多かったようです。そういったほうが精神性が深いように見えたりするので、人々に訴える力があるからでしょうか。しかしこういう名優たちは、実は長い年月の修業によって型をものにしていて、型について自信があるからこそ、こういう発言ができるのではないでしょうか。
 つい先日、1月17日、NHKテレビの深夜の「トップランナー」という時間で、売り出しの歌舞伎役者の尾上辰之助が出演していました。三の助といわれる超人気の三人の若手の一人です。彼がことし、祖父の名優、故尾上松緑の名を襲名するので、テレビ出演したのでしょう。
 彼は若いのに、型を守ることの重要さを強調していました。まず型があって心が出てくるということ。彼が役になりきるのは、化粧している間、そして衣装やかつらをつける間に精神を集中して役に近づくので、突然にその役になりきるとはいっていません。近代的なやりかたともいえます。
 辰之助は祖父松緑が歌舞伎の名優であると同時に、藤間流の家元として日本舞踊の名手でもあったので、松緑がなくなってすぐ、少年時代に藤間流の家元になっていたのです。俳優であり、舞踊家でもあるということで特に型を大切にするという心がけが感じられました。襲名披露の公演では祖父や父が得意にしていた演目を上演するとのことですが、それに対しての心がまえも話していました。派手な立ち廻りも見せるそうですが、以前は熱しやすかったので120%もやってしまうとケガにつながってしまうので、いまは100%より多くなく少くなく演じるようにつとめているなど。的確な言葉が見事でした。毎日のように舞台に出ていると、いろいろな発見もあり、技術だけでなく人間的にも成長するのですね。
 さて、「トップランナー」で感心していたら、ついさっき(1月28日)のテレビ朝日の「徹子の部屋」でも辰之助がゲストでした。二つの番組をとおして、まだ26才の若さなのに、話すこと、話しかたが行儀よく、特に姿勢のよさ、着物のきこなしのよさにも感心しました。舞台上での型のよさもこういう日常の立居振舞から来ているのだと思います。時々彼の舞台を見ているのですが、歌舞伎の舞台のはともかく、日本舞踊の会での紋付袴の素踊りには不満を感じていました。しかしテレビで見てのお話や態度から、型が丸見えの素踊りも安心して見られるようになるだろうと安心したのです。日本舞踊はバレエと同じく型が重要で、そのために並々ならない修業が必要です。前衛演劇や舞踊で気もちばかりが先行して、それを表現する技術がぜんぜんない場合もありますね。日本舞踊もバレエもまずはきちんとした型を見せることを求められ、それが心の表現につながるものだと教えられるような気がします。
 バレエに戻しましょう。先日、谷桃子バレエ団の「白鳥の湖」で、久しぶりに熊川哲也の古典バレエの舞台を見ました。高部尚子のパートナーとして王子を踊っていたのです。彼は以前も谷桃子バレエ団や日本バレエ協会、そして新国立劇場でも「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などの古典を踊っています。しかし僕はあまり感心していなかったのです。自分の見せ場は一生懸命踊りますが、あとは手抜き足抜きをしているのが手にとるようにわかってしまうのです。だからしばらく彼がゲストの古典は見なかったのです。ところがしばらくぶりの「白鳥の湖」は立派でした。バレエ全体の構成を見すえて、自分が踊らない場面 でもちゃんと演じ、型をきめていることで舞台全体に古典バレエの格調を守るだけでなくさらに高めていました。
 バレエコンクールで優勝したりすると、それが人生の目的を達したようになってしまってお偉くなってしまい、あとの成長がとまってしまう人が多いのです。彼もそんな中の一人かと思ったりもしたものです。彼はいつかテレビのインタビューで、日本のバレエの先輩たちの踊りについてのコメントを求められて、言下に「自己満足ですね」と答えたのでびっくりしたことがあるのです。辰之助とは全く正反対に見えました。ところが先日の舞台は別 人のようでした。彼もロイヤル・バレエから離れていろいろ苦労したり考えるところがあり、それがプラスに働いたのでしょうか。バレエは実に多くの人々の手で作りあげられるものです。彼はそのまん中にあって、ちゃんと王子様をやっていました。近ごろちょっと安心した話です。



掲載されている評論へのご意見やご感想を下記連絡先までお寄せ下さい。
お寄せ頂いたご意見・ご感想は両先生にお渡しして今後の掲載に反映させて頂きます。
また、このページに関する意見等もお待ちしております。
 
株式会社ビデオ
〒142-0054東京都品川区西中延1-7-19
Fax 03-5788-2311