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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.57 「舞踊とその作者の言葉」  
2002年6月20日
 韓国国立バレエ団の初来日公演でのグリゴローヴィチ版の「白鳥の湖」について、うらわさんとの意見のやりとりがつづいてしまいました。これは2人の「白鳥の湖」観や舞踊観、芸術観から人生観までの問題になるので、この際もっと掘り下げて見たい気もします。しかしこういう話だけでは皆さんも少々うんざりしてしまったらしいですし、他のことも書きたいのでもうやめたいと思います。2人ともあの版はあまり好きではないのですが、うらわさんは古典バレエとしては評価しないとおっしゃるのに対し、僕は何回か見てもそれなりに感動したし、20世紀のバレエの一代表として存在意義は認めるということです。彼が偉いから評価しているのではありません。
 「白鳥の湖」も19世紀から21世紀へと、時代が移れば多種多様の舞台が現れるのは当然です。観客はそれを全部見るわけには行かないので、選択は困るでしょう。批評家はできるだけ多くの舞台を見て、観客の指針となる必要もありましょう。うらわさんは自らを舞踊批評家の末席をけがすなどと自己紹介をしていますが、現在では東奔西走して日本で一番多くの舞台を見つづけて、まじめな批評を書いている人です。使命感に燃え、向上心も強く、よい意味での上昇志向もあって積極的に活動範囲を拡大しておられるのにも感心しているのです。だから僕が最も信頼する批評家なのです。
 それに対して僕は、うらわさんよりちょっと年上だし、だいぶ疲れています。自由な立場を利用して残り少なくなった人生をいろいろなものを見たり聞いたり食べたりしたい。どうせ劇場に出かけるならば、美点をさがし出しても楽しんでしまいたいのです。しかしだいぶ長い間生きて来たので、多くの舞踊の舞台を見ていますし、他のジャンルの芸術のこともあわせて血や肉にもしています。気楽な立場で、楽しみながらもそれなりの考えを披露して少しはお役に立ちたいと思ってこの欄を書いているのです。
 そして批評家も普通人も人間です。百人百様の人生や考えかたがあります。21世紀の多様化した世界で誰が偉いとか正しいということはもういえません。世界では人種や宗教の違い、政治体制の違い等で争いが絶えません。それに対して芸術の世界は違いがあってこそ面 白く、多種多様なものを同時に楽しめます。そして各人の芸術に対する接しかたや評価も千差万別 なのは当然のことでしょう。うらわさんと僕が全く同じ考えだったら二人で一週おきにこの欄を書く意味はなくなってしまいます。僕はこのエッセイ風な文章では、第一人称を「僕」などとくだけた書きかたをしてはいますが、楽しんで書きながらもそれなりに一生懸命なんです。ということで次ぎの話題に移りましょう。
 さてと、舞踊界では毎年のように前の1年間にすばらしい舞台を見せたダンサーや振付家に与えられるいくつかの賞があります。僕もいくつかの賞の審査をお引き受けしています。舞踊家でも舞踊批評家でもないのになぜ引き受けるのかとお思いの人もいるようですが、フリーターにも人生があり、僕も長い間、舞踊を見つづけているので、自由人として公平な判断ができるのでお手伝いをするのです。
 年があけるといくつかの選考委員会があり、春の間に授賞式がつづきます。先日はモダンダンス界では最も名誉のある賞ともいえる現代舞踊協会の江口隆哉賞の授賞式がありました。どういうわけか、この賞の選考会の委員長のような役をおおせつかっていたので、授賞式のあとで選考経過の報告をさせられたのです。実は僕は長(チョウ)と名がつく役が大嫌いで、それもあってNHKを退社したのですが、こういう一回ごとの役ならばとお引き受けしてしまったのです。
 第19回の江口隆哉賞の受賞者は野坂公夫さんでした。長年のまじめな努力が報いられての結果 です。対象となった作品は昨年の12月に新国立劇場の中劇場で上演された「森羅(しんら)」という作品です。僕は選考経過報告のついでに授賞理由を読みあげました。略記しますと、「森羅」はことさらに奇をてらわず、日本独特の叙情をにじませながら内容と表現の融合を図り、現代における人間性の回復、自然と人間の調和を求めるメッセージを伝えることに成功したといったものでした。(実は僕が書いたんです。)
  そのあと受賞者野坂公夫氏の受賞あいさつがありました。彼は全国から集まった現代舞踊協会のお歴々を前に御礼を述べたあと、この授賞理由が間違っているとおっしゃったのです。彼は近年友人や近親者を相次いで亡くしたので鎮魂の祈りを込めてこの作品を作ったのだというようなことを話しました。授賞理由にイチャモンがついたわけです。列席者の中からも笑い声があがりました。キマジメな野坂氏は自分がこの作品を作った発想と授賞理由がずれていたので我慢ができなかったのでしょう。さらに自分の人生経験をもとに長い年月をかけて作りあげた舞台を、一回だけ見て判断してしまう選考委員、というより批評家に対する日頃の気持ちの表現だったのかも知れません。僕は批評家のつもりではないので笑ってすませたのですが、驚いた人もいたようです。あとで聞くところによると、露骨に僕を馬鹿にしたような顔をした人もいたとか……。(誰でしょう?)
 実は僕はこの公演のプログラムに書かれた作者の文章を読まないで舞台を見ていたんです。無責任なようですがそれなりの理由もあるんです。とかく現代舞踊の作品は難解な作品が多く、プログラムに記載される作者自身の言葉もわけがわからず、舞台を見るにはかえって邪魔になることもあるんです。さらに作品の題名と内容が全然関係ないものもけっこう流行っているみたいです。ということでこの公演の日は、プログラムを読まずに舞台を見てしまったわけですが、作品はとても良く出来ていて感心はしたのです。ということで白紙の状態で作品を見た時の印象といった感じで授賞理由を書いてしまったのです。多くの賞の受賞者は受賞の喜びで、授賞理由などはあまり気にしないかも知れません。しかし野坂氏はあえて自らの気持を表現したのでしょう。もしかしたら画期的なことです。
 僕もさすがに気になって、昨年の公演のプログラムを捜し出して読んでみたらこうありました。前半を紹介します。「樹にふれ 林をぬ けて 森をさまよう 絲杉という樹が、古くから鎮魂の樹であるということを聞いてからもう随分時が経った。一人二人と親しい人を失い、絲杉の林をぬ ける思いをしてから、さらに森のようにその数を増し、わたしはさまざまな思いにさまよった。後略」。カッコいい…。全文を読むと作者の意図がよく伝わってきます。立派なコメントを読まなくて申しわけありません。しかし秀作は説明なしで見ても感動できるものであるべきで、読まないで見ても感心したので、あのちょっと抽象的な授賞理由でもよかったような気もします。
 ダンスの場合、作者のコメントもない上に、舞台も何だかさっぱりわからなくてもどかしいという場合も多く、多くの観客を獲得することはむずかしいのです。しかしダンスは言葉がないからこそ世界共通 語となることも考えられます。先日の朝日新聞に元「広告批評」の編集長でコラムニストの天野祐吉さんが、ワールドカップでサッカーに興味を持ったのは、人間が普段使っている手を使わないという制約のためだと書いておられました。ダンスは人間のコミュニケーションの最大の武器といえる言葉を用いないという制約のために全身全霊で踊るから迫力、魅力があるのではないでしょうか。
 野坂氏の「森羅」も解説や言葉なしでも感動を与えたという点で江口賞の受賞作に適当だと思います。親しい人を失った個人的な感情が起点となってはいますが、森の中で魂の声を聞いて自分の心が鎮まるといったことでは人間と自然の交感といった点で、個人的追憶だけでなく普遍性をも獲得していたのは嬉しいことですし、授賞理由も間違ってはいないはずです。
 しかしながら現代のダンスが一般の観客にアピールするのは大変なことです。やはり無理やりに作品をでっちあげるのではなく、発想に必然性があって内容と表現が一致したうえで、できればプログラムに適切なコメントがあれば、折角作った作品もさらに強くアピールできるでしょう。舞踊家の皆さん。ヨロシク!



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