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幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.65 「ボリショイの「眠れる森の美女」に思う」  
2002年10月25日
 うらわさんがボリショイ・バレエの「眠れる森の美女」を見ての御意見をなるほどと読ませていただきました。僕は今回は全く別 のことを書くつもりだったのですが、この話はバレエ鑑賞の上で大切なことと思うので、今回はあえてこれについての考えを書きます。
 さて、僕は今回のボリショイの「眠れる」日本初演の舞台を見ていません。他に見るものがあったし、あまり見たくもなかったからです。実は十数年も前にモスクワのボリショイ劇場でグリゴローヴィチ版の「眠れる」を見ましたし、ビデオの収録もするなどしてよく知っていているからでもあります。
 二十数年前の冬に初めてモスクワに行った時、夜が長いし世の中全体が暗いので新しくできていた「眠れる」を見たいと思ったのですが見る機会がありませんでした。その後たしか1989年90年と2回にわたってNHKがボリショイ劇場で代表的な10演目を収録して放送したことがあります。僕はもうNHKをやめていたのですが、ゲストディレクターとして「ジゼル」「ロメオとジュリエット」「スパルタクス」そして「眠れる」などを収録したのです。その中で一番面 白くなかったのが「眠れる」でした。面白くなかったのは舞台の全体でした。うらわさんはこの「眠れる」の欠点は踊りの持つ意味づけの不明確さ、無関心さ、そしてマイムのあいまいさ、分かり難さと書いておられます。僕も同感です。でも僕はそれと同時にダンサーたちの無理解や魅力のなさ、芸術の中途半端な現代性等々を総合して全体的に好きでなかったのです。
 20世紀になるまで、バレエはまず娯楽だったのです。19世紀末は絶頂に達した古典バレエの最高峰である「眠れる」は観客がわくわくするような華やぎや楽しさが先づ求められるのです。うらわさんはこの舞台について「ドラマの整合性よりも、お客さんに踊りを見せることに要点がある」と否定的に書いておられますが、僕は「眠れる」などは観客が物語を熟知しているので、まず踊りを楽しみたいのだと考えるのです。ドラマとしての整合性とプリマらの踊りの魅力を両立させるのは至難なことです。これが両立していれば文句がないのですが、グリゴローヴィチも成功しているとはいえないようです。音楽的に優れた能力を持つ彼は、全体の起伏など構築的な手法は優れているので、物語性よりも舞踊性に傾いているように思います。僕はグリゴローヴィチのこういった作法を美点だと思っていますし、「スパルタクス」などでは成功していると思います。しかし古典の名作では成功していません。
 これにはうらわさんも指摘しておられるようにマイムの問題もあるようです。19世紀の古典バレエは、ダンスの見せ場の間に伝統的なマイムが挟まれると物語が進行しました。これが20世紀も後半になるとマイムが古めかしいとして排されてきます。しかしマイムにかわるもので観客を納得させることは至難の業です。そんなわけでマイム部分を少くしながら暗中模索している振付家が多いようです。現在のところ世界中の古典バレエの規範ともいわれるK.セルゲーエフ版もマイムを減らしながら何とか古典美の世界を作りあげるのに苦労したすえに成功して、彼の死後も上演されています。
 うらわさんは古典にはマイムが必須のもののように説いておられますが、僕はどのバレエ作品にも同じマイムが出てくるのではなく、各作品に特有な動きで物語や心情が表現できてもいいと考えています。マイムは美しく演じられれば最高なのですが時にマンガチックになります。両手をあげてカイグリカイグリのように手をグルグル廻して「踊りましょう」とか、両手をお腹の前で交差させて「死にます」とかを見てすぐわかるのは年輩の人かバレエを習った人でしょう。マイムによる伝達はそれなりの知識が必要なので、いまやマイムは死語になりかかっているのです。僕もすてきなマイムがあってこそ本来の古典バレエだとは思うのですが、21世紀に残れるのか心配です。物語や音楽から自発的に生まれる雄弁な表現が求められる時代だとも思います。
 400年ほど前にオペラというものが誕生し、その直後から音楽を先行させるかドラマを先行させるかの活発な議論がつづきました。同じようにバレエでもダンスかドラマかの比重の問題はいつもあります。物語のない抽象バレエでもドラマを感じさせる部分はあります。反対に物語のあるバレエのマイム部分でもダンスの醍醐味を感じるのも嬉しい。さらにオペラやバレエ以外の舞台芸術でも同様なことがあります。舞台芸術の楽しさと解きましょう。
 能は具体的な表現よりも象徴的な少ない動きで人間の心の中をも表現しています。具象的な事件を写 実的に表現する映画やテレビ・ドラマと対極にあるものでしょう。歌舞伎は世話物と時代物とに二分されますが、世話物がリアルな演出・演技でドラマの整合性を意図するのに対し、時代劇では観客周知の物語のためか説明的な動きを抑制する場合が多く、かえって主人公の動きや心情がまっすぐに伝わってきます。背景に月があっても役者が観客の方に向いていい月だというのは、お客さまを大切にすることでしょう。舞台の上で殺人や自害など大事件があっても居並ぶ武士たちや女官たちがじっと座ったままで表情も変えないので、主人公たちは様式的な動きで怒りや悲しみのエッセンスを表現できます。大物俳優の腹芸を見せようとの演出でしょう。
 物語の進行の首尾一貫、現詰めの時空を見たいならば映画やテレビドラマ、そしてリアリズムを押し出す劇団の舞台を見ると満足できます。以前、合理的な時空を量 産していた外来の演劇界でも近年は不合理、非合理の世界を創造して評判を呼んでいます。これには日本をはじめアジア各地の芸能などの影響もあるようです。例えば昨年フランスから初来日した「太陽劇団」の舞台は、日本の文楽の手法を採用し、役者が人形になって、黒子のように顔をかくした人にかかえられて無表情に人形のように単純化された動きで芝居して観客にアピールしていたのに感心しました。等々、現代は何でもありの時代です。そして、何でもがそれぞれの内容や表現手法を持っています。そして内容と手法を見事にマッチしさせることが成功する秘訣でしょう。
 舞踊に戻りましょう。グリゴローヴィチ版の「眠れる森の美女」はたしかに壮大な舞台でした。しかし何だかもどかしい、うらわさんも僕も同じように少なからぬ 不満を感じています。ただ不満な部分が少しだけ違っています。僕は違ってけっこうだと思います。十人十色どころか、世界中の人は皆、違った考えを持つでしょうし、それが人間のよいところだと思います。まして僕はうらわさんのような舞踊批評家でなく、舞踊だけでなくいろんなものを気楽に楽しみたいという境地になっています。見たいもの聴きたいもの食べたいもの等々。いいもの、好きなもののバランスをとりながらなんとか余生を送りたいのです。



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