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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
 
Vol.67 「創作バレエの2日間」  
2002年11月19日
 ことしは紅葉が早まり、近所の花みずきや桜の葉が色づいたと思うともう散り始めています。物のあわれを感じますが、この秋も生きながらえたというホッとした感じもあります。がんばりましょう。
 11月15日、メルパルクホールで日本バレエ協会の「バレエフェスティバル」、翌16日には新国立劇場中劇場で新国立バレエ公演「J・バレエ~ダンス・クレアシオン~」を見ました。両方とも古典の名作と違って創作バレエの公演です。ところがこの二公演、多分に様子が違っているのが面 白かったのです。批評は避けて御報告だけしましょう。
 「バレエフェスティバル」は、日本バレエ協会の発足後間もなく始められたもので、もう41回目とのことです。日本人によるバレエの創作活動を促進しようとの目的で、ベテランから新人までの振付家の発表の場を提供して数多くの傑作を生み出し、すでに歴史的重みさえ感じさせる催しです。日本のバレエはダンサーの実力の向上が顕著で、すでに世界的に活躍している人も多いのですが、振付家たちはちょっと出おくれの感があります。日本では振付家を教育したりする機関がありませんし、国家的な保護育成も心もとないようです。それにもめげずに優れた振付家も生まれています。この催しは40年にわたって日本バレエ界の有為の振付家に発表の場を提供してきたわけです。そして公演活動はそれなりの歴史があればそれを守ろうという姿勢も出てきます。この公演でも、創作とはいうもののむやみに新しがらないのが特色ともいえますし、それが限界ともいえましょう。
 今回のプログラムは新旧の3人の女性振付家の3作でした。まずは海外での活躍しているというナンジョー レア(南條麗亜)振付による「四季」。おなじみヴィヴァルディの「四季」全曲を用いて、春夏秋冬それぞれにクラシックやモダンの手法を交錯させての華やかなバレエでした。つづいて、この催しには8回目の登場というベテラン小川亜矢子振付の「秋のソナタ」です。ベートーベンのピアノ・ソナタ第1番を用いた抽象作品ですが、一人の男性が樹木の幹、そして女性陣が秋の木の葉という役割のようです。ベートーベンの初期の構築的な作風を生かした構成感と自然界の美しさとの両立に成功していました。おしまいは多胡寿伯子(たごすわこ)振付の「ハムレットの狂気」です。イギリスの文豪シェークスピアの悲劇を、日本の文豪志賀直哉が「クローディアスの日記」で近代的解釈を施した作品をバレエ化したものです。クラシックだけでなくポピュラーなど多彩 な音楽を効果的に並べてインパクトの強い劇的なバレエになっていました。
 この3作ともが他の公演でかなりの評価を得ていたものの再演ということが面 白いと思います。再演によって完成度をあげた3作を対比させて、現代の創作バレエの水準を世に問うといった感じもします。おかげで開演前から内容やレベルの予測ができるし、終演後は期待を裏切られることもありませんでした。こういう態度は日本バレエ協会の体質から来るのでもあり、文化庁の助成を受けているので冒険よりは安全運転にもなるのでしょう。しかし全体にバランスがとれたレベルの高い公演でした。
 いっぽう「J・バレエ」のほうは新国立劇場が未来に向けてのバレエ芸術を発信する場として、2000年5月にスタートさせたばかりの催しです。これは国立の劇場としては思い切った新しさが魅力です。新国立劇場は6年前の開場記念の「眠れる森の美女」上演以来、チャイコフスキーの3大バレエ、「ジゼル」「ドン・キホーテ」など古典バレエの名作中の名作をつぎつぎに演目に加えていますが、いっぽう「J・バレエ」では思い切って新しい舞台に挑戦しています。
 J はフランス語の JOYEUX すなわち愉快なとか陽気なという意味を込め、JAPONAIS(日本の)ということも同時に指しているといいます。日本の国立の劇場なのにフランス語とはキザだとも思いますが、バレエ用語はフランス語を使うのでまあいいでしょう。振付者たち各人の個性をフルに生かした作品を上演して、とかくないがしろにされがちな日本人振付家の実力や魅力を披露しようという「とっておきの楽しい場所」を目ざしているとのことです。
 今回は気鋭の3人が振付家として登場しました。海外でも高い評価を得ている金森穣と島崎徹、そして日本にいながらも常に何か新しいことをしようともくろむ中島伸欣です。この3人が新国立劇場のダンサーを素材に新作を競い合います。新作なのでどんな舞台になるか見当がつかないという期待と不安がありました。
 金森穣作品 String(s) piece はモノクロームの世界です。stringとは弦楽器の弦でもあり、舞台の上に張られた教本の糸でもありましょう。作者は「舞台上には見えない細い線を感じとって見つけてもらえたら」とか、完全に抽象的な発想ですが、身体を極限まで酷使した動きが多く、スリリングな舞台でした。
 中島作品 Nothing is Distinct は無機的な舞台に大きな金属的なオブジェが上下したりします。働く男性陣とか元気な女性陣。両者の交流、一組の男女の出会い。そして大きなオブジェの落下は同時多発テロを想起させます。残された二人の行方は?人間たちの将来を心配させるような作品です。
 最後は島崎作品 FEELING IS EVERYWHERE です。洞穴のような装置の中で、まばゆく輝くカラフルな衣装の10人の女性が、2人ずつ組んで仲よくしたりもめたり。装置が上方に消え、女性陣はタイツ姿になっての開放的な動きで楽しそうに終わります。視覚的に斬新なのに意表を突いてバッハやヴィヴァルディ、ヘンデルなどを用いたのも愉快。この作品でようやく「愉快な」といったJ・バレエとなっていました。
 この二つの公演を見て、現代のバレエもいろいろあるものだといまさらながら感心してしまいます。僕のうんと若いころ、バレエというものの必要条件として、バレエは女性ダンサーがトゥシューズをはいて踊るものだとか、必ず物語があるはずとか、バレエは音楽の視覚化だから音楽の起伏に合っていなければいけないとか、さらにはグラン・パ・ド・ドゥがなければいけないとかいう話を聞きました。いま考えるとこれは古典バレエのことですね。そして20世紀も終わり、いまのような約束事はもうありません。
 先日の「バレエフェスティバル」では3作ともにトゥシューズが使われていましたが、「ハムレットの狂気」ではハムレットの母親ガートルードの地位 の高さや気位の高さを表現するなど特別の効果のために使われていたのです。古風にも見えた3作ですがもちろんグラン・パ・ド・ドゥなんてありません。そして「J・バレエ」はもう昔のバレエらしいものはありません。ダンス・クラシックの訓練をきちんと受けた人々の肉体が素材になっているだけともいえましょう。ダンサーたちはコンテンポラリーダンサーのように自由自在に踊ります。こうなるとバレエとかモダン、コンテンポラリーなどの境界が取り払われてくることにもなります。現に島崎作品ではモダンダンスのスターがゲスト参加していて魅力を発揮していました。
 20世紀の初頭にイサドラ・ダンカンによって一切の束縛から解放される自由なダンスとして提唱されたモダンダンスも一世紀をへてさまざまな変容を示し、多彩 な様相を見せています。ヌーベルダンスとかコンテンポラリーダンスとか、そして日本独自の舞踏も。
 現代日本のモダンダンスの中心的組織として現代舞踊協会があります。これは以前から活躍していた石井漠、江口隆哉、伊藤道郎らの流れを汲み、すでに確固たる世界を形成しています。いっぽうこれにあきたらない人々もいて、それぞれの活動も見せていて百花繚乱といった趣きがあります。芸術家たちは自分の立場だけが正しいと思いがちですが、幸いなことにこちらは鑑賞する立場です。ジャンルを問わず楽しみたいのです。金子みすずの詩のように「みんな違ってみんないい」といったところでしょうか。しかし多種多様な物が溢れかえっている現代です。本当にいいものを見きわめる能力と努力が必要になってきます。がんばりましょう。
 自然界では紅葉の色が濃くなり、今度は落葉になって地に落ちます。「バレエフェスティバル」での「秋のソナタ」の幕切れは木の幹になって中央に立つ男性を残し、紅葉役の女性陣は落葉になってフロアに伏しました。自然と芸術を見くらべることで、芸術とは何かを考えるきっかけになるかも知れません。



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