D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
 
Vol.55

古典バレエ演出の要点  

 
ーマイムにも大きな見所がー」
 
2002年5月28日
 

 韓国国立バレエ団についての話がこのところ続いており、藤井修治さんもまだ終わらないようですので、私ももう少しそれを発展させてみようと思います。
 まず、先日の新国立バレエ団の『ドン・キホーテ』に、この韓国国立のプリンシパルコンビが主演したこと。私は初日(5月17日)に見ました。ロビーでいろいろな方からいかがですかと聞かれましたが、私はおよそ次のように答えました。「韓国と日本の国立のダンサーたちが同じ舞台、同じ作品で共演している。それだけで感動しました。つぎには日本のダンサーが韓国の国立劇場で踊ってほしい」と。
 付記しますと、22日酒井はなは見事でした。最初こそ相手役の佐々木大とのアダジオのコンビネーションに齟齬が見えましたが、全体として演技、技術もですが、一番感心したのはその動きやポーズのスタイルを作品に合わせていること。今度の『ジゼル』でどう変身するか楽しみです。佐々木大も一卵生ママの念力が通 じ、段々よくなる法華の太鼓。
 話を戻します。小泉首相の靖国参拝や瀋陽の総領事館の亡命問題など、政治家や外交官が国際的ドジばっかりやっているなかで、バレエでそれをカバーして相互理解、親善を推進してほしい。その意味で(個人的にはそれ程関心はありませんが)、サッカーW杯もぜひ成功してもらいたいものです。
 芸術に政治をもちこむとは、という意見もあると思います。しかし、芸術だって純粋に社会と無縁に存在することはできない。芸術、芸術家と社会の接点をもっと増やすこと、これが私の基本スタイルだということは、障害者との関係などを始めとしてすでにこのページでも再三述べてきているところです。
 といっても、ここでたとえば有事法制の問題を議論しょうというのではありません。
 前回も韓国国立バレエのところでとりあげた、古典バレエの演出についての私論をもう少し展開してみたいのです。藤井修治さんは『白鳥の湖』の歴史とそれぞれの演出の特徴をきちんと解説されていましたが、私は少しやんちゃに独断で古典バレエ論、というほどのものでもないんですが、を記してみます。
 まず古典バレエを、クラシックかロマンチックかということは問わず、長年にわたって評価の定まった作品(演出、振付)のこととします。大雑把にいうと音楽ではプロコフィエフ、ストラヴィンスキー以前、振付ではプチパ、イワノフまでです。
 その演出には2通りの方向があると思います。一つはまったく異なるコンセプトで換骨奪胎して、新しい作品に仕立てるもの。マッツ・エックなどにはこういうものがあります。パロディもそれに含まれます。これはこれで大変結構です。
 もう一つは、その形式を精緻化し、それに命を与えることです。多くの新演出、新振付はこの線を狙っているのでしょう。ただ、そのほとんどは、あえていえば、古典作品を誤解しているように思えるのです。
 まず古典作品の音楽は踊りの部分と、情景という芝居(マイム)の部分からなっています。問題はこの情景の部分です。たしかに、マイムは踊りという視点でみれば形式的でつまらない、なんとかしたいという気持ちは分かります。新しい作品でいきなり紋きり型のマイムがでてきたら興をそがれますから。といってもマイムなしでドラマを表現する、たとえばチュダーの手法を古典に応用しようとしても無理です。音楽にしても構成にしても基本的に違うのですから。たとえば『白鳥の湖』や『ジゼル』で芝居の部分の音楽を全部カットしてしまったらどうでしょうか。これでは物語はなくなってしまいますし、抽象的な舞踊作品としても統一の取れないつまらないものになってしまうでしょう。
 それで多くの新演出は、ここの部分をマイムをやめて踊りっぽい動きで埋めようとします。しかし、そのほとんどが、踊りとしてもあまり意味はないし、話はなお分かりにくくなってしまっています。そのいい例が『白鳥の湖』第2幕の湖畔でのオデットと王子の出会いの場面 です。このやりとりを全部書くと長くなってしまいますが、要はオデットがみずから素性、今の境遇、そしてそこから逃れる道について語り、王子が彼女を助けることを誓う場です。このマイムをなくすと、ただなんとなく王子がオデットのアラベスクをプロムナードしたり、立ち尽くすポウズの回りで軽くジュテをしたり、あるいはオデットがアチュードをしたりという程度になってしまうのです。
 たしかに、かってのマイムはつけたりの形式という感覚はありました。私が王子をやっていた頃(大昔です)は、マイムはその意味内容よりもいかに美しくやるかに要点があったようです。たとえば、愛するというマイムも、切ない表情で心から愛を訴えるというより、片足をア・テール(床につけた)アラベスクにし、表情も変えずに胸をはって堂々と愛するという形を演じるのです。今でも私と同年代のキャラクター(演技役)にはこういう芝居をする人がいます。せりふでいえば、声や発音はいいけれど棒読み、って感じでしょうか。
 現代では、マイムは形の美しさよりもいかに意味を、ドラマを伝えるかが重要で、それは十分に作品の見所になるのです。たとえば、『白鳥の湖』の1幕の終りと2幕の終りの両方に、王子が空を飛ぶ白鳥を目で追うシーンがあります。いうまでもなく、この2つの場の王子の白鳥に対する意識はまったく違います。説明の要も無いでしょうが、1幕は狩りの獲物の追跡であり、2幕では愛の対象との別 れです。これがきちんと演じ分けられたらそれだけでも大変見事なことではないでしょうか。
 『ジゼル』の例を上げましょう。私が一番好きなのは冒頭のシーン。アルブレヒトがジゼルの家のドアをたたき、隠れる。ジゼルは愛する人に会えると喜んで出てくるが見当たらない、間違いかとがっかりして家に戻ろうとした瞬間、彼に出会うという場面 です。驚き、そして喜びと恥じらい、うまく演じられると本当に感動します。もう一つ素敵な経験を紹介します。ジゼルの1幕のヴァリエーション、コンクールでよく取り上げられるもので、大体カミテにアルブレヒトがいるという想定で、そのような動きを込めて踊られます。私はよくコンクールでこれを踊るダンサーに「本当にそこに愛する人を見ていますか」と聞くのです。会釈する形だけ示してもだめです。ところがNBAバレエ団安達哲治演出のアグネス・オークスの場合はもっとすごかった。初めは一番踊りを見てもらいたいアルブレヒトが探してもそこにいないのです。寂しく気にしながら踊り始めますが、途中で彼が姿を見せます。すると、彼女の表情がパッと明るくなります。もちろん振りは変わりませんが、踊りの雰囲気ががらりと変わったのです。素晴らしい見せ場でした。
 このような見方をすれば、マイムや表現の面白さはますます深くなり、舞台はなお感動的になります。私はむしろ、踊りそのものよりもこのようなところに惹かれます。
 もちろんそれには、その基である演出意図の説得力、そしてそれにさらに肉付けするダンサーたちの力と意識が必要なのはいうまでもありません。韓国国立のグリゴローヴィチ版『白鳥の湖』にはこれがほとんど見えなかったのです。 




掲載されている評論へのご意見やご感想を下記連絡先までお寄せ下さい。
お寄せ頂いたご意見・ご感想は両先生にお渡しして今後の掲載に反映させて頂きます。
また、このページに関する意見等もお待ちしております。
 
株式会社ビデオ
〒142-0054東京都品川区西中延1-7-19
Fax 03-5788-2311
video@kk-video.co.jp