D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
 
Vol.56

古典の演出と批評家の仕事  

 
ーグリゴローヴィチの『白鳥の湖』論からの展開ー」
 
2002年6月11日
 

 藤井修治さんのグリゴローヴィチ氏の『白鳥の湖』についての文章を皆さん御覧になりましたか。私も拝見して、なるほどという点もいろいろありました。
 でも、率直にいってその通りだとは思いませんでした。ごめんなさい。私のいいたいことはすでにこのページで詳しく書いていますが、もう一度要点を確認しておきます。
 第1点は、クラシックバレエ、とくにそのなかでも最高峰である『白鳥の湖』は音楽も構成もふくめて基本的なスタイルが確立されているのだから、単にマイムが古臭いといった理由で省くという程度の意識で改善できるはずがない、ということです。誤解を招かないように付記しておきますが、基本的なコンセプトを変えて全く組み替えれば別 ですし、そしてもうひとつパロディ化も別です。だれか『白鳥の湖』の抱腹絶倒のパロディをやってくれませんか。なお、永田幹文さんの『ジゼル』の1幕は、なかなかのセンスで大いに笑いました。さらに、私はガチガチの古典派ではないということです。もっとも好きな作品はA・チューダーの、たとえば『火の柱』だということ。さらに古典作品は聖域で手をつけるなといっているのではなく(上に書いたようにパロディ大歓迎)、そのスタイルをもっと精緻化し、ドラマとしての整合性を高めることは可能だと思っています。たとえばピーター・ライト氏の『ジゼル』の演出の線で。かりに『ジゼル』のマイムの部分をすべてなくして、踊りや雰囲気を現す動きだけにしたらどうでしょうか。1幕はもちろん問題にならないでしょう。2幕でもそうです。ウィリの女王ミルタが許しを乞うヒラリオンに死を宣告する場面 で、手首を交差させたまま上から下へ打ち下ろす『死』を意味するマイムをわざわざ避ける演出があります。なぜやめてしまうのでしょうか。たんなる形式だからですか、それをやめることで作品がどうよくなるのですか。私はあのマイムによって、いかに形でなく相手に意思を伝えるか、さらにミルタの女王としての威厳と支配力を示すか、これがそのダンサーの力が問われる場だと思っています。
 もちろん、私はグリゴローさんがたんなる思いつきで、ちょこちょこと手直ししたとは思いません。またあくまで今回の韓国国立バレエの舞台を前提にしていますから、彼の意図が完全に実現されていたかどうかもわかりません。しかし、基本的は彼の演出による作品だとは再三一緒に仕事をした藤井さんも認めていますから、あえていいます。私はグリゴローヴィチ氏の『白鳥の湖』の演出は全く評価しません。その理由は前回詳しく書きましたのでここでは省略しますが、マイムをほとんどカットしたことも、王子を中心に据えたドラマの組み立ても、どちらもその意図が全然見えませんでした。
 ただし、このことで彼を全く認めないといっているのではありません。『スパルタクス』は見たのは少し前ですが面 白かった記憶がありますし、ソ連、ロシアをつうじての彼の功績は、いろいろと批判もあるようですが、全体としては評価しています。
 もうひとついいたいことがあります。それは批評とはなにか、ということです。率直にいって、とくに海外の有名な振付者の作品は、それだけで評価してしまう傾向がみられます。これはブトーにもあるような気がします。
 いくら素晴らしい才能をもった芸術家でも、その作品や演奏、演技に出来不出来はあります。たとえば音楽、ベートーヴェンの9つの交響曲にだって、私は専門家ではないので具体的には分かりませんが、大変優れたものとそれ程でもないものがあるのではないでしょうか。それはオペラにもあるでしょうし、さらに文学や絵画にだってあるでしょう。これは人間である以上当然ですね。舞踊でもプチパだってそうですし、ベジャール、ノイマイヤー、キリアンなど、ビックネームにも作品にむらはあると思います。もちろん、これはその個人が芸術家として評価されるかどうかとは全く別 の問題です。基本的に全体として評価した上で、その作品については作者の名声とか全体の業績をはなれて客観的に評価する。普通 の観客やファンなら別かもしれませんが批評家としてはこれは大変に大事なことです。
 少なくとも私はそうしようと思っています。最近の例でいえば、アシュトン氏の『シンデレラ』、マクミラン氏の『ロミオとジュリエット』はあまり評価しないということを、きちんと活字にしています。
 もちろんそれには理由がなければ、たんなる好き嫌いになってしまいます。評価の基準が必要です。私はこれらのタイプの作品については、基準をドラマとしての基本コンセプトとそれに基づく構成、文脈さらに感動性においています。
 そうしますと、『シンデレラ』は、父親の扱いがあいまいなのがドラマの深みを失わせ、継母なしの2人の義姉妹のドラマ上の意味についても、たんなる笑わせ役以上のものがくみ取れないからです。(実際には他にも理由があります。)また『ロミオ~』は、両家の対立、そしてそこからくる2人への重圧が十分に描かれていない、ほかいろいろです。
 この意味で清水哲太郎氏の『ロミオ~』は良くできていますが、同じ『シンデレラ』は父親が登場せず、その代わりの演出の工夫はありますが、やはり物足りないのです。
 もうひとつ批評家がチェックしなければいけないのは、出演者です。初めてのダンサーでは、その能力とその日の出来の両方が必要です(海外での評判は別 として自分の目で)。見る目のある批評家でしたら、そのダンサーの基本的な力とその日の出来とを分けて評価判断することができます。一流の、評価の定まったダンサーでも出来具合はその日によって微妙に違います。それがライブの面 白さでもあるわけです。クラシックバレエのようなはっきりした技術体系をもったものは、その部分は分かりやすいですが、演技についてもあると思うのです。たとえばブトーのダンサーのその日の出来はどう評価するか、いつもブトーの批評を見ながら思っています。例えば田中泯さんだってその日によって多少演技の出来具合は違うはずですよね。
 これと同じことをこの間のピナ・バウシュの公演でも感じました。どうもこのようなタイプの作品の公演評は、その日の実際の舞台の上に乗ったものについてでなく、その作品そのものの意味に重点がおかれているような気がするのです。つまり、何月何日にどこで行われた公演の批評でなく、ピナ・バウシュ論、作品論、あるいはその作品のもつ意味の解説になってしまっているのではないでしょうか。
 私は今度の彼女の公演には疑問も欠点もいくつかあったのですが、ほとんどの方は、ピナの作品というだけで満足されているように見えました。ピナの作品のなかにもいいのとあまりよくないのとあるが、この作品は彼女のなかでもとくに素晴らしいとか、またこの日の舞台空間の密度や表現の凝集度などが見事だったとか、あるいは今回の舞台はアンサンブルにやや乱れがみられ、観客へのメーセージが不十分だったとか、という批評はしないのでしょうか(もちろん、作品の価値に触れてはいけないといっているのではありません。)ぜひ、どなたかのお考えを聞かせていただきたいと思います。




掲載されている評論へのご意見やご感想を下記連絡先までお寄せ下さい。
お寄せ頂いたご意見・ご感想は両先生にお渡しして今後の掲載に反映させて頂きます。
また、このページに関する意見等もお待ちしております。
 
株式会社ビデオ
〒142-0054東京都品川区西中延1-7-19
Fax 03-5788-2311
video@kk-video.co.jp