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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
 
Vol.58

「バレエにおける演技の意味について

 
ー「ジゼル」について感じたことー」        
 
2002年7月9日
 

 前回の私のページで、6月末から8月の初めまでにいろいろなタイプの「ジゼル」が上演されるということを書きました。皆さんご承知の通 り、この作品は古典バレエ(正確にはロマンチックバレエですが)のなかでもっともドラマチックなもので、とくに第1幕は、時間をきちんとはかったことはありませんが、芝居の部分が半分以上だと思われるほどそのウエイトが大きくなっています。またマイムの話かとうんざりされる方も多いかと思いますが、mizuhoさんのメールに力を得て、もう少しこの問題について考えてみることにします。
 「ジゼル」第1弾、新国立劇場は初日と4日目を見ました。ジゼルはバルボア・コホウトコヴァさんと志賀三佐枝さん、ともにほどがよく、まわりのダンサーもよく訓練され、装置、衣装その他、さすがに国立という感じで全体としては楽しみました。ただし、ここで述べたいのはダンサーではなくその演出についてです。演出はセルゲーエフ版に基づきナターリャ・ドゥジンスカヤさんが監修しています。たしかにロシア(旧ソ連)系にしてはマイムも丁寧に設定されています。
 ただし、疑問もあります。私がいいたいのは歴史的にどうとか、だれの版がこう、ということではありません。演出の合理性、整合性という点からの問題です。「ジゼル」というバレエを詳しくご存じない方には分かりにくいかもしれませんが、お付き合いいただけると嬉しいです。細かいところは別 として、ここで取り上げたいのは第1幕の次の点です。
 第1幕の中ほどに、コンクールなどでもよく踊られるジゼルのV(ヴァリエーション)があります。これは、踊りの上手なジゼルに村の仲間たちが踊りをせびるところから始まります。ただこれには伏線として、その前にジゼルは心臓が弱く、無理をすると命にさわるということを母親のベルタに言い渡されているのです。しかし、ジゼルは愛するアルブレヒトにも踊りを見せたいので、ぜひと頼みます。ベルタも根負けして、あまり無理をしないようにといいながら許します。
 ジゼルのVはこのような状況での踊りなのです。この場面はなにも問題はありません。2人ともしっかりと踊り、表現していましたし、ベルタも心配しながら娘の踊りを見守っていました。むしろ感心したのは、ジゼルの友人の1人、高山優さんがベルタの脇で一緒になって心配そうに見守り、ジゼルが無事に踊り終えたとき、ほっとしたベルタを、よかったわねと心からいたわっていたことです。
 演出もあったのでしょうが、自然にそんな雰囲気になった感じでした。こういうのを見るとほんとうに心が暖まります。
 疑問はこの次からなのです。これまでこの演出以外には記憶にないのですが、ジゼルの踊った後、アルブレヒトがヴァリエーションを見せます。私は物語の流れからいってこれは必要ないと思います。あえて意味づければ、ジゼルはその前にも村人たちの踊りの輪に彼を誘いこんでいるのですが、皆に自分の恋人を良く知ってもらいたい、仲間と認めてもらいたいという気持ちでアルブレヒトに踊ってもらうということでしょう。しかしその意味は全く感じられませんでした。むしろ女性の主役がソロを見せたのだから、次は当然に男性のソロ、あるいはお客への踊りのサービスという感じでした。
 「パキータ」や「ドン・キホーテ」の結婚のお祝いのグラン・パ・ド・ドゥの場ならサービスや賑やかしでヴァリエーションを増やすのは分かります。しかし、「ジゼル」のような作品では、踊り1つにも必然性がほしいのです。そして、この次にペザント・パ・ド・ドゥが何の前触れもなしに続きます。ここでも、アルブレヒトを仲間と認めたという意思表示、たとえばペザントの男性が彼の肩でもたたいて、では私たちも踊りを見せましょう、という演技が欲しいところです。
 私のいっていることは演技にこだわり過ぎていると思う人がいるかもしれません。でも、演じるほうでも、そういう意味づけがあったほうが、スムースに気分がのるのではないでしょうか。自分でいうのはなんですか、少なくとも私がやるとすればそうです。

 実はこういっているのは私だけではないのです。少し長いですが引用してみましょう。 ーメートル・ド・バレエはその役目として、人間本来の心の表現の瞬間、すなわち表現が感情の産物として力と真実を伴って現れる貴重な瞬間に演技者が到達するときまで、いくどでも繰り返して、演技場面 の稽古を重ねなければならない。 ーこみいって、長たらしく、筋の運びの簡潔で分かりやすい説明もなく、いちいちプログラムをみないことにはあら筋さえも追えないようなバレエ、作者の意図が理解できない・・少し略します・・これらは舞踊を基礎にした単なるディヴェルティスマン(余興として関連のない踊りを並べたもの=うらわ)に過ぎないのである。それが私を感動させることはまずないのだ。 ー不必要な登場人物は、ひとりといえども観客の前に現れてはいけない。・・・その劇の上演のために厳密に必要な数の登場人物だけを紹介するのは当然である。 ーメートル・ド・バレエは、かれの踊り手各人に、異なった動作、表情、性格を与えようと努力すべきである。踊り手たちは・・・作者が苦労を重ねて創作した主題を真に迫った身振りと物真似によって表現する義務がある。(もしそうでなければ)それは真実と何の関わりもないから、観客に感動や感激を与える力も権利も持たない。
 きりが無いのでやめますが、これはだれの言葉でしょうか。
 バレエの改革者として多くの人に影響を与え、今日のバレエの基礎を作ったといわれるジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727~1810)の、バレエのバイブルといわれる「舞踊とバレエについての手紙」(1760)からの引用です(小倉重夫の訳による)。
 彼について語りだすと終わりがなくなりますが、現在でも、しかもバレエだけでなくダンスの関係者にも、ぜひ読み直してもらいたい書です。




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