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ニュース・コラム

ロンドン在住・實川絢子の連載コラム「ロンドン ダンスのある風景」

ロンドン ダンスのある風景

Vol.3ラッセル・マリファント&シルヴィ・ギエム「PUSH」

 
 暗い舞台の奥に、うすぼんやりと照らされた人影が浮かび上がる。ダンサーの体の輪郭がだんだんくっきりと見えてくると、まずダンサーの体の光に当たった部分と陰になった部分のコントラスト、たとえば筋肉の隆起によって出来る影や光に透ける髪の毛などが、彫刻のように強烈な視覚的印象を与える。静かに動き出す身体は、まるで無重力状態で踊っているかのように、重さはあるはずなのにどこまでもひっそりとしている。
 私が今、英国で一番注目している振付家、ラッセル・マリファントと、マリファントの才能にほれ込んで近年パートナーシップを組んでいるシルヴィ・ギエムによる公演の最初の演目、「Solo」はこのようにして始まる。ギエムの神々しいまでの存在感が、光とともにじんわりと舞台に溢れ出していくさまに、思わず身震いしそうになった。
 スパニッシュ・ギターの音にあわせ、ギエムの代名詞とも言える、あの耳に届きそうなディヴェロッペを何度も見せたギエム。テクニックはクラシックに基づいていてギエムの超人的な身体能力が遺憾なく発揮されていたが、そこにはクラシックバレエにおいて描かれる非現実の世界ではなく、地に根ざした現実の世界があり、ギエムはフラメンコを踊っているかのような情熱を静かに燃焼させて見せた。
 ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルの地位から離れてから、ロンドン随一のダンス専門劇場であるサドラーズ・ウェルズ劇場のアソシエイト・アーティストとなったギエムは、40代半ばとなった今も、積極的に気鋭の振付家と組んで新境地を開いている。中でもロイヤル時代に出会ったマリファントとは、「Broken Fall」以来着実なパートナーシップを築き、2005年の「PUSH」はギエムのダンス人生のハイライトのひとつともいえる名作となった。
 
 
   
 
 
 今回の公演は、日本でも上演されたマリファントとのデュエットの「PUSH」、ギエムのソロ「Two」に加え、ギエムのクラシック・ダンサーとしての資質を生かしたソロ「Solo」、マリファントのソロ「Shift」という過去の4作品からなるプログラムで、2月にロンドンを震撼させた「Eonnagata(女形)」の再演を控えて、急遽上演が決まったものだった。
 暗闇の中、ライティングで四角に切り取られたように照らされた限られた空間の中で、水滴が落ちるような音に合わせて静かに始まる「Two」。極限の静謐さを表現したギエムが、ビートの効いた音楽が始まるやいなや、研ぎ澄まされた刃を用いた殺陣のように鋭い動きをノンストップで見せる。限られた空間の中で、跳躍も回転も一切ないのに、身体能力のギリギリのところまで見せるその手法は、何度見ても斬新だった。暗闇の中でそこだけ照らされた四肢を、信じがたい速さで弧を描くように動かしていくことで、まるで宙を舞う火の玉のような〈動線〉が見え、幻覚を見ているような気分になった。
 マリファントのソロ「Shift」は、後ろに立てられた屏風風の壁に彼自身の影が映し出され、マリファントと影のデュエットと呼んでもいいくらい、彼の影が強烈な存在感を放っていた。光の具合によって、マリファント自身の踊りと、マリファントの影の踊りは微妙に違って見え、しかも影は突然消えたり、二人になったり三人になったりと数を変える。この作品も以前鑑賞したことがあったが、マリファントと長年組んでいる照明アーティスト、マイケル・ハルスのセンスには改めて感心してしまった。
 マリファントとギエムのデュエット「PUSH」は、「Solo」同様、ギエムがマリファントの肩に乗って後ろ向きに立っているところが暗闇の中に浮かび上がって始まる。一切の無駄のないイメージは、ライトが消えてはまた浮かび上がり、そうすることで空間に二人の像を刻み付けているかのようだった。二人がはまるで一人の人間のように呼吸が合っていて、ひとつの踊りが女性と男性に分化したかのようだった。時に男性的すぎると批判されてきたギエムだが、「PUSH」ではギエムの女性性が際立って見え、シンプルな二人の踊りは官能的でさえある。マリファントがギエムの背中に乗って静止したり、二人で倒立したりと、直線的になりそうな動きも全て滑らかで丸みがあり、ギエムとマリファントの身体による会話は、30分という長さを全く感じさせない濃密なものだった。
「PUSH」のあとは客席総立ちのスタンディング・オベーションとなり、この作品が改めて二人の代表作品と呼ぶにふさわしい傑作であることを証明して見せた。
 
 
   
 
 
 終演後、劇場近くの裏通りにたたずむパブに立ち寄ったところ、マリファント氏がやって来て隣の席に座ったので、勇気を出して声をかけてみた。一見気難しそうな外見からは想像も付かないほど、非常に気さくな人であった。ロンドンでは、劇場関係者が立ち寄るパブが数多くあり、このように出演者と出会う機会も珍しくない。観劇後の高揚感に、パブの居心地のよさも手伝って、忘れがたい夜となった。
 
實川絢子
實川絢子
東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。現在、翻訳・編集業の傍ら、ライターとして執筆活動を行っている。