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カバーストーリー

ダンスの世界で活躍するアーティスト達のフォト&インタビュー「Garden」をお届けします。

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BUTOHとして海外でも支持される舞踏は日本が誇る独自の表現芸術だ。自らを舞踏中毒というのは人気の舞踏集団・大駱駝艦の主宰者、麿赤兒氏。映画やテレビに登場して強い磁力を放ち続ける麿氏が、ここでは舞踏をめぐって語る。麿赤兒の世界のとてつもない大きさは、私たちをいっそう惹きつける。
   
Interview, Text:林 愛子 Aiko Hayashi Photo:川島 浩之 Hiroyuki Kawashima  
   
もう30年以上前ですが、日本青年館で大駱駝艦を拝見してショックを受けました。それまでの舞踏と違って、舞台がとてもダイナミックなスペクタクルで楽しかったので。
それは「陽物神譚」かな、上から人が降ってくるやつ。
     
そうです、そうです。あの、自己否定という言葉が盛んに使われていた時代に、*土方さんの舞踏を見るとちょっと暗く追い詰められた気持になったのが、大駱駝艦はパーッと目の前が明るく開けている感じでした。
土方さんは15歳上で、僕、兄貴分だと思っているんですけどね。土方さんの原体験は戦前、戦中、命ギリギリ時代、僕は戦後でそのへんに大きな違いがあるんですね。実際たいへんな時代で、敗戦で突然、教科書が真っ黒に塗られたという、そのようにドラスチックな価値転換のショックみたいなものが土方さんにもあって、だから世界に対する、大変な不信感がありますよね。そういう意味では僕の場合は戦争が終わって、関西のほうだからそんなに食い物にも困らないし、どっちかというと戦後の民主主義が開けた幻想みたいな。そこにどっぷりつかってみんな仲良く、貧乏でもなにか希望みたいなものがあった。土方さんの世代の人には世界の構造や人間へ不信感というようなものは、つきまとうでしょうね。人間のやっていることなんて簡単にひっくり返っちゃうんだという、そこにある種の虚無的なものがかなり入ってね。僕もどちらかというと別の意味で虚無的なんですけど(笑)、暗いのと明るいの、みたいなのはある。
戦後に育った、明るいほうの虚無で。
そういうのはあるでしょうね(笑)。
     
存在自体を否定するというようなところがあったのが、土方さんの舞踏。
そうですね、それと同時にフランス、ヨーロッパから入ってきた実存主義的思考。それと、誰も信用できねえみたいなのとのせめぎあいがあって。そこから常にアンチ・カルチャー、アンダーグラウンド的な傾向が土方さんたち、*寺山さんや*澁澤さんの世代はあったと思う。人間のやってることのあやふやさみたいなものに対してはガツンときたんでしょうね、僕もそういうものは受けついでいますよね。何が人間を簡単に変えてしまうのか、という…。そういう戦前、戦中の先輩たちの不信とか疑念とかが、ちょうど僕らのところで変な花の開き方をした、というのはありますね。
 
土方さんは秋田のかたですよね、麿さんは奈良で。
時代や風土的屈折度は僕のほうは少ないですから、どっちかというと笑っちゃうほうなんですよ、なんぼのもんじゃ、みたいな、ね(笑)。
     
どんな少年でいらしたんですか。
物心つく頃には奈良の田舎ですからね、飛鳥時代がかつてあって今やペンペン草が生えているところに家があるわけで、そこでそのペンペン草に小便引っかけているみたいな(笑)。のん気なものでした。
     
そういうのん気な暮らしのなかで、どういうところから演劇に惹かれたんですか。
それは僕自身のちょっと特殊な環境でいわゆる戦災孤児ってやつですね。ま、なんにでもなることができるのが演劇だからという幻想でね、フィクションのなかでのひとつの家族、疑似家族を構成したりしてね。親が戦争で死んだとか肺病で死んだとか、そういうわけありの連中ばかりが集まってくる。片親しかいないとか僕みたいに両親がいないとか。どっちが不幸一番かみたいな(笑)。実はそういうことが不幸かどうかってことはよくわかってはいないですが、同病相憐れむみたいな感じで、楽しんでいたんじゃないでしょうかね。
     
演劇を一緒にやるというのはそういうことですよね。
そうそう。仮定の親父や仮定の母親をつくってみたり、なんか追体験をしようということはやっていましたよね。本当の母親、本当の父親というものとの対し方がわからない。ものの本で追体験して、ああ、そういうことなのかな、と。しかしそんなものは実感したこともない、という喪失感というものもあって。
   
その延長で早稲田の演劇にお入りになったんですか。
それは口実で、やっぱり田舎はごちゃごちゃしてますから、そういうよどんだ所から抜け出だそうみたいに、勝手に思っているだけなんですけどね。もともとはよそ者ですから、ほんとは石川県の金沢のほうに両親が生まれたんで北陸系なんです。それがなんらかの関係で三重県の津に移り、小学5年から奈良に移っていった、と。ですからどこに行ってもよそ者感覚があるんですね。吉祥寺にいても、いつもよそ者ですから。あとはね、開き直り方を覚えましたけどね(笑)。東京ってのはほとんどよそ者だらけですから。
         
大駱駝艦はどのような経緯で始められたんですか。
唐の状況劇場をやめてぶらぶらしていたんですけど、若いのが集まりだして、毎日酒ばかり飲んでいました。よく見ているとお互いみんな飢えた顔している、と。何に飢えているのかはそれぞれですが、僕が役者上がりということもあって、何か舞台でやりたいということからきてるんでしょうね。当時はやめてもまだ唐の戯曲が一番おもしろいとマインドコントロールにかかっていました。だから唐の戯曲以外のものをやるってことは考えられなかった。ではどうするか、よし、とにかくこのままゴロゴロやっているのを舞台にもっていこうと考え始めた。いい音楽かければいいんじゃないかって、そういう発想ですよ。
 
*土方巽(ひじかた たつみ、1928年3月9日 - 1986年1月21日)は舞踏家、振付家。モダンダンスを学んだ後、暗黒舞踏という日本独自の新しい舞踊形式を確立した。三島由紀夫をはじめ、ジャンルを超えたさまざまな芸術家たちに影響を与えた。

*寺山修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は、日本の詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、評論家、映画監督、俳優、作詞家、写真家、劇作家、演出家など。演劇実験室・天井桟敷を主宰し、前衛的手法が世界的評価を受けた。また言葉の錬金術師と呼ばれ、膨大な量の文芸作品(小説・エッセイ・評論・戯曲・シナリオなど)を発表。

*澁澤龍彦(しぶさわ たつひこ、本名、龍雄(たつお)、1928年(昭和3年)5月8日 - 1987年(昭和62年8月5日)日本の小説家、仏文学者、評論家。マルキ・ド・サドを紹介するなど人間の精神や文明の暗黒面に光を当てたエッセイが大きな影響を世間にもたらした。小説家としても独自の世界を開く。
       
麿 赤兒
Akaji Maro
舞踏家土方巽に師事をしながら唐十郎とともに劇団状況劇場を設立。60年代は唐の「特権的肉体論」を具現する役者として、その怪物的演技術により、演劇界に多大な影響を及ぼす。'72年大駱駝艦(だいらくだかん)を旗揚げし、 舞踏に大仕掛けを用いた圧倒的スペクタクル性の強い手法を導入。 天賦典式(てんぷてんしき)と名付けたその手法は日本はもちろんフランス ・ アビニヨンフェスティバル、 アメリカン ・ ダンスフェスティバル参加 ('82)により海外で大きな話題となりBUTOHの名が世界のダンスシーンを席巻する。 ダンサー、 役者、 演出家としてあらゆるジャンルを越境し、舞台芸術の分野で先駆的な地位を確立している。
1974年、1987年、1996年、1999年、2008年舞踊評論家協会賞受賞。
2006年文化庁長官表彰受賞。