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(2019.5.7 update)

伊藤範子 Garden vol.33

音楽と溶け合った振付は、ドラマティックで骨太で説得力があり観客を惹きつける。
今、最も注目される伊藤範子作品の数々。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

 

プリマでもあった伊藤範子さんの「白鳥の湖」など主役の舞台を私は拝見していましたので、今のご活躍はうれしい限りです。振付家はいつ頃、志したのですか?

2002年に新国立劇場のオペラ「カルメン」で、振付助手を探していて、その作品は必ず再演するから、劇場側として助手が一人必要だと。バレエだけでなくコンテンポラリーとかいろいろな分野に携わっている人がいいということになって、佐藤弥生子さんが私を推薦してくださった。そこで初めて振付助手としてプロの仕事をしました。それから「イル・トロバトーレ」「椿姫」はじめいろいろなオペラ作品の助手を務めさせていただきました。そのあとに振付のご依頼いただき、「椿姫」「アイーダ」「カルメン」「フィガロの結婚」「仮面舞踏会」、たくさんやらせていただきました。演出家にお会いしてお話を聞くと、きっちり本も読みこまれて時代考証や全体的なこともよく勉強なさっていて、こうやって作品ができあがっていくんだと間近で感じました。時には一緒につくらせていただいて、ここはどう思う?と聞かれたりすると私なりにお話しさせていただいたり。そんな経験を重ねるうちに、一から作品をつくっていくのっておもしろいなぁと思うようになりました。

世田谷クラシックバレエ連盟のために「ホフマン物語」も振り付けてますね。

はい、世田谷クラシックバレエ連盟から1時間くらいの作品をとご依頼いただき、 オペラ「ホフマン物語」を新たに構築し「ホフマンの恋」というオリジナルバレ工作品に仕上げました。

構成も振付も人物造形も見事でした。音楽に対するアプロ―チ、踊りそのものをほんとうに知っている人がつくった作品だと誰もが感じたはずです。他にも「ホフマン物語」はあるけれど伊藤作品はベストと評価する人は多い。ところで伊藤さんは、海外にも留学していますね。

イギリスのランバート・スクールに行きました。コンテンポラリーにも興味ありましたし、バレエのクラスはロイヤル・バレエの元プリンシパルの先生たちがずらりといて、毎日、授業は必ずコンテンポラリーとバレエを一教科ずつ両立してやっているのでおもしろいかなと思って。学校自体は一年ですが私は一年半いました。ロンドンだからウェストエンドでミュージカル見たり、ニューヨークに行ってバレエ、ミュージカル、オフ・ブロードウェイまでいろいろな舞台を見ました。それもいい経験だったと思います。

伊藤さんはいわば谷バレエ団育ちですね。バレエ団は早くから若手ダンサーにも自由に作品を発表させていたように見えました。

アトリエ公演や創作公演を行っていたので刺激になりました。


 

振付作品を継続して発表できるというのは、素晴らしいことですね。

いろんな方から仕事をいただいて、ありがたいです。一月のバレエ協会神奈川ブロックの「ドン・キホーテ」全幕もそうですが、仕事がつながっていくことがうれしいし、それにこたえなきゃいけない。今はアウトプットが多いので、いろいろなことをインプットしていかなければと思っています。

その神奈川の公演では、振付が伊藤範子さん、指揮が冨田実里さんという女性二人が活躍して。こういう時代になったんだと感慨を覚えました。

海外に行くと必ず劇場付きの指揮者がいますよね、富田さんが新国立劇場付きの指揮者になったと聞いたときはうれしかったです。海外の劇場と同じようなシステムでやっていくのは、いいことですね。

 

バレエの世界は先駆的な役割を果たしてきた女性ダンサーが多い。そもそもバレエを始めたきっかけは何だったんですか?

友達が谷桃子バレエ団研究所で習っていて、母も谷桃子先生世代でファンだったので、「先生にお会いできるわ!」(笑)と喜んで娘を連れて行ったんですね。第一回目の発表会は、「おもちゃ箱」というタイトルでいろんな人形があったりするなかで私はロシア人形。その写真の一番前の先頭が私で、偶然にも担当の振付の先生が辞められて、大御所の谷先生が「じゃあ私が振り付けるわ」と。だから私の6歳の初舞台は谷先生の振付作品だったんです。先生とのご縁をつよく感じます。

その時すでに踊る楽しさを感じましたか?

同時にピアノも習っていたんですね、ピアノは練習しないとだめですが、バレエは行けば楽しく踊っていられました。

家に帰ってきてもバレエの練習しなさいとは言われないし(笑)。

そうそう(笑)、それでバレエの発表会も楽しいし。ただ、大人になるにつれて、プロを目指すようになって稽古の大事さを理解し、人一倍練習するようになりました。

 

優れた舞踊家は皆さん、ものすごい練習をなさる。谷先生もとても練習する方だったようですね。

私は先生のその年代は知らないんですけど、引退公演で「ジゼル」を踊られた時、私はちょうど研究所に入った時で東京文化会館に見に行きました。先生とご一緒に練習したことはないですが、先生は練習風景をご覧になるのがお好きで、晩年も一から十まで常に稽古場で見ていらっしゃいました。

今、伊藤さんは後輩の方々や生徒さんたちを指導する立場でもありますね。

研究所は今、谷桃子バレエ団附属アカデミーになって、若い先生方もしっかりしていますから安心して任せています。私が教わっていた頃よりバレエ環境はグローバルになっていますので、現代で先端に立っていなければいけませんが、なにより谷桃子の伝統を受け継ぐアカデミーなので、先生がよくおっしゃっていた、動きの一つ一つに気持ちを入れなさい、といった谷先生の姿勢は生徒たちに伝えていかなければと思っています。

 
 

dream

1974年の初舞台(谷桃子バレエ団研究所発表会)
谷桃子先生振付による「おもちゃ箱」
写真一番右